未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百八十四回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 悪き種子は育ち易し。良き種子は育ちがたきことは、諸子も体験したることならん。取れども取れども尽きざるは雑草なるべし。此雑草をも刈りとりて程よく按排し、肥料として地をこやすならば却てよき種子の養ひとなるは、是又諸子も体験したるならん。信仰の法はかくの如し テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義


 今慈音は隣家の未亡人と語り居るを聞くに、その未亡人の曰く、「人を呪ひて死に至らしむる如きことのなし得るや」と。慈音是に答へて 「其は念力と称して念の力強ければ、なし得らるるなり。されど斯ることは一般人のなし得らるるものにあらず。故にかかる人は或一種の精神障碍者なり」と話し居るを聞きたり。念力によって他を虐ぐることを得るならば、是を反対に用ゆれば人を救ふことも得らるる道理あらん。 人を倒すのみが念力にはあらざるべし。用ひかたの如何によっては、その余力が種々様々に通ずることが察せられるならん。されど果してそれが真なりや偽なりやは、常識判断にては到底考への及ばざるならん。されど信ずる力の備はりあるものならば、考へずして行ひ得るなり。即ち学ばずして、知ると云ふは是なり。信ずる力は誰にもそのそなはりを有す。然るに是を引き出す力と、気力のうすき為涌き出で来らざるのみなり。信と云ふは霊の地なり。此地に、相当するところにすべての種子を蒔けば、その分に従つて成長す。 所謂信とは霊の地なるが故に、すべてを発育せしむる力の具備あるを指すなり。是を絶対の地と名づくるも可ならん。大地は一見すれば唯土の如く見ゆれど、蒔く種子に応じて其々の養分を送りて、その個性を活かし育て居るにてはあらざるか。もし大地に種子ならざる他の器物を埋るとも其は育たざるべし。然るに器物を長く土中に埋むれば時間によって、その埋めたるものが形を変ずる場合もあらん。是等も信の力に帰するなり。例へば一個の木の箱を土中に埋むれば、腐蝕して影を止めず。その土に化せられるならん。是即ち信の力なり。汝の肉体を土中に埋むれば、骨格のみ残り他は消滅す。 然してその骨格も軈ては消滅するならん。 是大地の力なり。信の力は同様の関係ありと知るべし。汝の肉体に備はりある霊地も斯くの如き働きをなすなり。故に霊地のはたらきを粗略にせずして、霊地に肥料を施して霊地を肥す方法を信仰と云ふなり。然して信仰の力をのばすとは、霊地を肥して如何なるものをも育つる働きを増大せよと教へ居るなり。欺かるるとも信ぜよとは欺かれし種子をも育てよと云ふことなり。霊地は如何なるものをも嫌はず育つるにあらざれば、霊地の徳は発揮することあたはざるなり。欺くとは悪き種子なり。欺かるるはその種子を蒔かれたるを意味す。その種子を育つれば悪き実を結ぶは当然なるべし。されど其は霊地の罪にあらず。 蒔きたるものの罪なることは推して知ることを得るならん。善不善、正不正に不拘、蒔きたる種子、蒔かれたる種子を育つるは信仰なり。即ち霊地なり。悪き種子は育ち易し。良き種子は育ちがたきことは、諸子も体験したることならん。取れども取れども尽きざるは雑草なるべし。此雑草をも刈りとりて程よく按排し、肥料として地をこやすならば却てよき種子の養ひとなるは、是又諸子も体験したるならん。信仰の法はかくの如し。

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