未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百八十三回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 礼義の礼は、即ち霊気の霊に通ずと見ても差支なからん。 相互に礼を交はすは、即ち霊を通ぜしむるに他ならず。故に礼を霊に通ずと云ふもこじつけにはあらざるべし。 拝みすると云ふは即ち霊を霊に、同化せんとの一つの法なり。 礼義を重んぜよと云ふは霊気を重んぜよと云ふ事に変へては如何 テツシン貴尊講義

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絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて

           テツシン貴尊講義



 天地相和してすべてをつくる。天と地と合するを諸子は会ふと云ふならん。会ふとは愛の意味なるべし。 我等、諸子の世界の言葉を知らねば、その意味の如何あらんかは知らねど、天地和合することを会ふと云ふならば、会ふは愛に通ずと云ふもこじつけにてはあらざるならん。よしその言葉がこじつけとして語りたりと思ふも、其は諸子の心任せなり。兎に角我等はその意味ならんかと語りしのみなり。地も霊なり。天も霊なり。 天と地合するは、即ち霊と霊との相通ずるが故なり。不可分の関係にてはあらざるが故なり。諸子の肉体に於ても同様の関係あるなり。諸子は他人と会ひたる時手と手をにぎりて挨拶をなすならん。 又相互に頭を下げて挨拶になすもあるならん。是霊気と霊気を合せしむる一つの方法なるべし。相互に霊気の合通を計る方法なるべし。礼義とは和する方法ならん。又もこじつけの言葉かは知らねど我等に云はしむれば、礼義の礼は、即ち霊気の霊に通ずと見ても差支なからん。 相互に礼を交はすは、即ち霊を通ぜしむるに他ならず。故に礼を霊に通ずと云ふもこじつけにはあらざるべし。
拝みすると云ふは即ち霊を霊に、同化せんとの一つの法なり。 礼義を重んぜよと云ふは霊気を重んぜよと云ふ事に変へては如何。然せば拝みの意味は察せらるべし。信ずるが故になきものをもありとして悟る事を得るならん。無きものをなしと考ふるも亦信なるべし。 異なるところは不確定と確定の相違あるのみ。 信と云ふ言葉には相違なからん。不確定も信なり。確定も信なり。諸子は信なきが故に親は子を捨て、子は親をかへり見ず。自は他を欺き、他は自をはなるる如きは是信にあらず。信ぜざるが故に、斯る姿となるなり。此意味を諸子は知るや。諸子には到底理解すること難からん。 諸子の信仰は信にあらずして唯知ると云ふに他ならず。 知りたりとて信ずる力なくんば、其は空行く雲の如し。神を知りて神を信ぜずば、自他一如の関係とはならざるなり。然して霊気は和せざるに至らん。無智の人には斯る言葉もて語るとも、到底さとる事は難し。諸子は知らんとして学ぶが故に、学びて其徳を発揮することを得ざるなり。知らずとも信ずる力を強くするにあらざれば、霊気は通ずるものにあらず。斯く語らば諸子は 霊気は、何ものにも通じ居ると云ふに対して又も不審するならん。霊気はすべてに伝はり居れど、信ずる力の程度によって強弱はあるなり。知らざれば信ずるあたはずとの考へならば、諸子は、生涯信仰することは難からん。知ると知らずに不拘、信ずる力を養はずば、さとりは得難し。 かく語らば知らざるものを、信ずることは得ざるにてはあらざるかとの疑問をなすならん。 斯る疑問を抱く間は、到底信ずる力はそなはらざるべし。知る知らずに不拘、すべてを信に化せよ。 諸子は他を信ずれば彼は我に対して善とならんとか、或は又我に力を与へんとか云ふが如きことを信ぜよと誤解する勿れ。我等先に語りし欺かるるとも信ずべしと云ふ言葉に対して、誤解し居ること多き故なり。 諸子の思いは誤てる考への信なり。 我等の語る欺かるるとも信ぜよの意味を曲解なし居るが故なり。所謂信の意味を誤解なし居るによって、斯る誤ちたる方向に信をむけ居ること多し。

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