未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百八十五回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」と云ふを語りおけり。日本人の用い居る勿体なしと云ふ言葉を、他国人に通ぜしむることを得るや。 然らざるべし。信仰を深くする霊地とは是なり。霊地は勿体なしの程度迄進まずば、霊地を発見すること難し テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
           テツシン貴尊講義


 諸子の信仰とは確定したるもののみを、信ずる力を養はんとするが故に、却て雑草ははびこるなり。此理を悟らんとなれば、先づ信仰に相当する霊地を発見するにあらざれば、正しき信仰は得られざるなり。果してその霊地は那辺にあるかに思ひを廻らさざるべからず。諸子は美しき花園を見て、大地の徳を見ず。 花にのみ心惹かれて唯美しき花よと称讃するのみ。是を育て開らかせたる大地には無関心なるべし。末知日記前書にも語りたる如く、泥中の蓮を見て、蓮にのみ思ひを致し、泥中を称讃する人は、あらざるならん。是等は信仰の力うすきが故なり。否信仰と云ふ霊地を知らざるが故なり。 もし花園に心奪はれてある時、 その花が毒気を発するものならば、 諸子は眠りにおちて生命すら失ふこともあらん。其が大地の信仰に迄達し居らば、かかる花には心止めずしてのがれ去ることを得るなり。信仰の力とはかくの如し。一度あやまてば生命をも失ふ。迷信とは是なり。 是等の類を迷信と云ふ。 正しき霊地は雑草を繁茂せしめず、是を肥料として正しきものを育つるによって、かかる誤ちを犯すものにあらず。


 我、諸子に問ふべし。諸子は日々他人より恵を受けて有難しとの言葉を発するならん。是等は諸子の全世界に通じたる言葉なり。然しその有難しと云ふ言葉の意味を、我等の心に感ぜしむる答へをなせよ。何が有難きか。 この言葉は一般に用いられてありながら、一種の挨拶にすぎざるなり。 今一層是を深くして忝と称する言葉、更に一層深くして、勿体なしと云ふ言葉に到らしめて、 其等の意味を我等に納得せしむる底の説明をなし得るや。
有難し添勿体なしとの意味は那辺にありや。是を徹底せる言葉に迄変へて、衆人の心に感銘するところ迄至らしむるにあらざれば、霊地を知ること難し。諸子の世界には一般の挨拶語として用いられ居るにすぎず。その言葉は一片の雲にすぎざるなり。斯ることにて信仰は得らるるものにあらず。 末知日記前巻に語りたる、「何事のおはしますかは知らねども、勿体なさに涙こぼるる」と云ふを語りおけり。日本人の用い居る勿体なしと云ふ言葉を、他国人に通ぜしむることを得るや。 然らざるべし。信仰を深くする霊地とは是なり。霊地は勿体なしの程度迄進まずば、霊地を発見すること難し。 諸子は神を信ぜんと努力しありながら、神を知らざるは、即ち霊地を知らざるが故なり。故に何ものを見ても有難しの真をすら、究むることを得ざるなり。
 太陽を眺め其が形あるに不拘有難しとも思はざるが故に、眼に見えぬ空気にすら有難しとの念はおこらざるなり。かかる程度の信仰にて、神を信ずることの得られざるは当然なるべし。有難しより辱(かたじけなし)、更に勿体なし迄の真の念に迄到達せずば、神を拝することは難し。勿体なさに涙こぼるると云ふ極致に迄到らしめずば、汝に宿り居る神の姿は、恰も空気のそれと同様なるが故に、見ること難きも推して知ることを得るならん。無智者の人にして、日々勿体なしとて暮し居る人は多し。是等は学ばずして霊地を発見したる人なり。

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