未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百八十回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 諸子を天界に導くと云ふは肉眼より心眼、心眼より魂眼、魂眼より霊眼と次第に行をすすむる事によって、初めて霊界の位置に置るる事なりと思はば天界は遠からず、汝生きながらにして天界に到ることを得るなりとの理を語り居るに他ならざるなり。故に肉体失はるれば修養修行は困難なりと、語り居るはこの理なるが故なり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
            テツシン貴尊講義
 



 とりわけ心の気と、魂の気とのみ交はり居る人には神懸りとか、或は悪事を企む人の多きは霊気がにぶき故なり。末知日記前書に語りし如く心にも二種あり。 又魂にも二種ある事は既に諸子も知るところならん。即ち心意魂魄を云ふなり。其が心気と魂気とのみ交はらば、従つて霊気も亦一方的となるによって悪人ともなり、又狂人の如く神懸りとか称する如き姿となるなり。 是等を応用したる法には合気の術とか、或は気合術とか、又は催眠術等の如き事をあらはす術となるなり。即ち気に依て気を制すと云ふは、一方的なるが故なり。 名づけて是を抑圧法と云ふ。小児を叱りて屈服せしむる親の姿は是なり。命令的に人を屈服せしむるは心魂の気をはたらかすることによって、かかる一方的の姿となるなり。 心意魂魄の気和すれば、自然にそなはる威徳にて、命令せずとも従はしめんとならば従はしめ、開放せんとならば開放すること自在となるなり。心意魂魄和して霊気加はらば、其にてすべての法は、自づと覚り知ることを得るなり。 心魂の気或は意魄の気のみ和するならば、学ばずば法は得られじ。 諸子は未知日記全巻を熟読して、更に一工夫せられん事を。


子に対する親心は善良なる人間に育てんとして、心魂の気をはたらかするのみならば、或は叱り或は鞭打つ等の法を以てせざるべからず。是と反対に意魄の気のみ和して育つるならば、其は俗に云ふ動物愛となりて是又完全に育つる事を得ざるなり。俗に云ふあまやかすと云ふに他ならざるが故なり。意魄は愛を意味するが故なり。是等はすべて霊気の和しかたの相違にて、その範囲もきめて広し。詳細に語り居らば枚挙に暇なし。依って是等は省略す。されど我等の云はんとする霊気と霊気の交はりと云ふは、更に別個の関係あるなり。即ち心魂をはなれて、霊気に順ずる和しかたを云ふと知るべし。 是は非常にむづかしき論説にして、諸子には解しがたからんと思へど研究せば、自づと自得する道は開らかるる事を知るによって、参考に迄語りおくべし。霊気を知るは魂にあり。 魂の力優れずば霊気に順ずることは難し。是は複雑微妙なる意味を有す。霊気とは先にも語りし如く、すべてに通ずることは諸子も知るところならん。霊気には特殊の作用あるによって、無言詞を有言詞に化せしむる力もあり、又法を作る自然の備はりもすべて霊気によってなされ居ることは、従来より語り来りたる如くなり。たとえば肉体をはなれたる人の魂を見る力は、霊より他にあらざるなり。霊の力備はらずば、すべて無なるものを見ること難し。諸子の中によく語り居る霊魂と云ふは実は霊魂にあらず、錯覚幻影に他ならざるなり。是等は心魂の気によって見るが故に正しき見かたにはあらず。所謂俗に云ふ「幽霊見たり枯尾花」の譬喩に他ならざるなり。真の魂は霊ならでは見ること難し。肉眼を通じて心眼、心眼を通じて魂眼のみにては正しき魂は見ることを得ざるなり。其が今一層深くなりて魂眼を通じて霊眼を開らかしむるにあらざれば、完全なるものは見ることを得ず。この理は既に諸子も解することを得るならん。 されど事実に於て是を見ることを得ずば、机上の空論にすぎざるなり。己・霊界の人となりて、然してすべてを見るにあらざれば、正しきものを見ること難し。 我等が口角泡を飛ばして語り居るはここなり。諸子を天界に導くと云ふは肉眼より心眼、心眼より魂眼、魂眼より霊眼と次第に行をすすむる事によって、初めて霊界の位置に置るる事なりと思はば天界は遠からず、汝生きながらにして天界に到ることを得るなりとの理を語り居るに他ならざるなり。故に肉体失はるれば修養修行は困難なりと、語り居るはこの理なるが故なり。





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