未知日記霊話集未知日記霊話集 第千二百七十九回 絶対界 第十章 霊気と霊気の交はりに就いて 我等は諸子をしてこの苦患よりまぬがれしめんが為に、肉体を有する諸子に対してこの事を伝へ教へて、然して不滅の地に到らしめん事を命ぜられて、 諸子を導き居るなり。現に円海のミキョウは多くの魂をあづかりて、或は天界に或は下界に、其々運び居る任務をなし居りて分時も彼は怠らず。 忙がしく働き居るなり テツシン貴尊講義

ヒロさんの転記したものをここに掲載しています

絶対界
第十章
霊気と霊気の交はりに就いて
            テツシン貴尊講義


 学びて得たる法と、学ばずして自得する法の二種あるは、魂の作用と心の作用との区別あるによって、ここに相違あることも推して知るならん。 学びて知るは心にして、学ばずしてさとるは魂なり。故に魂ならざるべからず。霊は心にも通じ魂にも通ず。この事柄は「末知日記」前書にくはしく語りたれば、諸子はすでに認知なし居るならん。されば魂を霊にかへす方法を構ぜずば、無言詞の如何なるかを知ること難し。霊界とは無言詞界なり。魂は是を受けて言葉に組織してすべてに通ぜしめ居るが故に、実在的となりて現はる。魂を霊によって育つるにあらざれば、完全なる結果は得られざることの理も、推して察するならん。霊界は終始なきが故に、この所に魂をおかば、永久生死の苦はあらざるなり。是を安楽界と云ふなり。 又自由の世界とも見て可ならん。 故に魂は霊に返すことによって、不滅となるなり。霊に返すことをせざれば、生死の苦を伴ふ。故に迷ふなり。 魂の本体は霊に通ずることは、すでに説きり。されど未熟の魂ならば、不完全なるが故に、霊に帰せしむるともそのはたらきはにぶし。 故に迷ふなり。此理を知らずして諸子は一生を空しくなし居るが故に、浮住界の悩みを受けて、苦より苦と苦みに移され生死の間をさまよひ行くが故に、滅不滅の関係は繰り返されて果なく持続するは憐むべきことにてはあらざるか。もとより霊の余力を受けて育ちたる魂なるが故に、かかる悩みは持続するなり。すべてを霊に任せて魂を完全ならしむれば、斯る憂ひはあらざるなり。 我等は諸子をしてこの苦患よりまぬがれしめんが為に、肉体を有する諸子に対してこの事を伝へ教へて、然して不滅の地に到らしめん事を命ぜられて、 諸子を導き居るなり。現に円海のミキョウは多くの魂をあづかりて、或は天界に或は下界に、其々運び居る任務をなし居りて分時も彼は怠らず。 忙がしく働き居るなり。 是等はミキョウのみにあらず。 セイキヨウも同様の任務をなし居るなり。されどセイキョウとミキョウとの役目は又別個の関係あるによって、その趣きを異になし居ること云ふ迄もなし。 我、テッシン又同様の任務をなし居るなり。 天界は複雑なれど皆それぞれの事柄に対して、其に相当する任務者の働きありて、一糸紊れず整理なし居るが故に、一見何事もなきが如く見ゆれども、霊界の忙しさは筆舌の及ぶべきところにあらず。 諸子は眠りたければいねもし、遊びたくば遊びもなせど、我等には斯る余裕はあらざるなり。諸子は日々忙がしく働き居るが如く見ゆれど、遊ぶ時間は働く時間に比べて非常に多し。 二十四時間のうち働く時間は僅かに二三時間に過ぎざるなり。或者は一時間乃至三十分の働きにて終り居るものすらあるなり。 我等の眼より見る時は一日全部諸子は、遊び居るなり。 我等は食するにあらず、いぬるにあらず、遊ぶにあらず。是を諸子の世界にて云ふならば、一日二十四時間全部働きをなし居るなり。 斯くして疲労を感ずることなく嬉々として任務に服し居るなり。 諸子はかかる事をなし得るやを考へ見よ。 諸子ならば天界などに赴きて斯くも忙がしければ安楽などとは、夢にも考へられずと思ふならん。 諸子の日々はたらき居るは働きにあらずして、遊び居るが故なり。 誰かがあらはしたる天国地獄と云ふ作文の中に、極楽に赴きて始めは楽しかりしが、日を経るに従ひて倦怠を感じ、軈て其が嵩じて悪事をなして地獄に堕ち行く小説を我等は見たり。斯る極楽は空想的の極楽にて、真の極楽を知らざるが故なり。 永久不滅なるが故に働きは楽し。 働かざるが故に倦怠を感ずるなり。是等の事柄の詳細は教主によって、更に諸子が思いもよらざる教へを受くるならん。話はいささか横道に入りたる感あり。
心の気、魂の気、霊の気、すべては気なり。心気と霊気と交はらしめ、或は魂気と心気と交はらしめ、或は魂気と霊気と交はらしめ、或は心魂霊の三つの気を交はらしむる事の相違ある事に考へを移して、研究せざるべからず。心気は霊気を受けて働らく。されどその交はりの厚きとうすきの相違によって、時には心気のみはたらき居る為、霊気はうすくして力を少なくする事は、諸子は日々体験するところなるべし。心気と霊気と密接に交はらしめて働き居る人を、名づけて賢者と云ふ。言葉を俗化すれば利巧なる人とか、或は小利口なる人とか云へる類のものは、即ち心気と霊気の交はりの厚きを云ふにて、患者と云ひ或は痴者と云へる類は、霊気の交はりにぶきを云ふならん。 もとより霊気は交はり厚ければ是に従ひ、うすければ又是に従ふ。魂を忘れがちなる諸子なるが故に、心のみ忙がしく働かせ居るによって或は悲しみ、 或は怒り、或は倦怠を感じ、或は、眠りを催す等々の事多し。 其が一度魂の働き現はるる時、ここに又一段変りたる姿となるなり。 例へば諸子は一つの心配事ありて思案に及ばず、沈思黙考して深く悩みを重ねる時、ここに又新らしき道は開かれて、その悩みが解除せらるる如き体験はあるならん。 所謂窮すれば通ずの比喩に洩れず、斯ることはたま々々あるなり。其時こそ魂は働きをなしたるにて、その魂が霊によって方法を知り、然して魂より更に心に及ぼして、その悩みを解決する事を得たるなり。
此体験に基きて日々の修養修行に心して思ひを致すならば、魂の在処を知ること易からん。然して常に魂と霊との交はりを厚くすることによって、心の働きなど如何に変化すとも、是をゆるす明らめをなしたる人こそ、確かなるさとりを得たるにて、心の用法に対して彼是と迷ひを深くする間は、 末だ魂を知らざる故なりと思ひて、深く行ぜんことに努力せられよ。

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