覚者慈音370

未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その27
 次は五流界より三流界に至る迄の説明
                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 余事は兎に角魂界の人類ともならば法力巧力のすぐれたる事を知ると共に、智慧の程度の如何に高きかをも悟ることを得たらん。前書に於て語りたる五味の木の話を世人は如何に考ふるや。もとより魂界と雖も上中下の三部に分たれ居ることは、世人も承知なし居るならん。五味の木の植えられある処は魂界の下部に属す。されど我等が五味の木に対して語りをきしは余事にあらず。此界の事柄を語るに先だち参考となる事を慮って、前書に於て伝説として或は今尚事実あるによって語りをきたり。是よりこの事柄の意味を世人の修養修行の材料としてくはしく語り聞かすべし。前書を参照して聞くべし。
 我等世人に語らんとする処は他にあらず。すべて汝等の世界その他上界下界を問はず、生の持続しある以上すべては味なるべし。世人は味と云へば口にするのみを聯想するが故に、味の範囲はせまくなり居るならん。舌によって辛酸甘苦を知る如きを、味と云ふならばそは至って範囲せまし。我等の語る味とは一切悉くの生あるものに対しての味を云ふなり。音に於ても味あり。眼に触るるものすべてにも味の存することに意を用いて、是を広くして考ふる時、其処に何か発見するもののあらざるかに思ひを廻らし見よ。香にも味あらん。宗教にも亦味のあることに心附くことはあらざるか。言葉に於ても意味を有すと云ふにてはあらざるか。所謂深き意味とは味を指すならん。言葉を咀嚼翫味せよと云ふも味はへよとの言葉なるべし。深き意味を存するが故によくよく考慮して、其を味ふならばと云ふ言葉に対して、味はふとは肉体の口にあらずして、心の口にはませよとの意味なるべし。然りとせば眼耳鼻舌心悉く味のあることに考慮せざるべからず。かく語り来る時味とは何かと云ふ言葉に至って、考案を廻らさば、何か悟り得るものの存することに心せざるべからず。世人のよく云ふ浮世の荒波に乗り出して、すべての辛酸甘苦をなめ尽したる者にあらざればと言ふ言葉あらん。この辛酸甘苦とは如何なる味を語り居るやに考へ及ぶ時、己が日々の生活は即ち辛酸甘苦の世渡りをなさざれば、一人前の人間とはならざるならん。肉体労働をして疲労困憊する時、是に対して辛き味なりと云ひ、又他人より苦められて心にいたみを覚ゆる時、苦き経験をなめしと語り、人を欺きて彼は甘しと嘲る等々是等は口の味にはあらざるべし。
 汝の肉体は辛酸甘苦渋の五味調和して生を保ち居るにてはあらざるか。肉体には塩分糖分苦分渋分等々の備へあるが故に、生存なし居るならん。是の中何れが欠乏すとも是を補給せざれば、生は保ち難し。肉体健康ならんとせば五味調和したる食品をとらざれば病を生ず。かかる事は我等語らずとも世人のよく知るところなり。地水火風空是即ち五味なるべし。即ち地とは肉体を指し、水とは血液水分を云ひ、火とは温度を現はし、風とは呼吸を、然して空とは心のはたらきを指したるにて、人体悉くこの具備なくては生存するものにあらず。宇宙全宇宙共に此理に基きて存在なし居ることは、肉体より考へて全宇宙に及ぶも、同様の関係となることに意を用いなば、自らが肉体の部分部分より推測するも宇宙の姿は、事実見聞せずして察することを得るなり。又我等の語る天界の有様を聞きて、是を世人の肉体にとりて修養の資料とせば可ならん。然する事によってこそ我等の語る処は、小説或はお伽噺の如く無意義に終ることなく、いささかにても世人の智慧は、開らかるる道理あらんと思ふが如何!




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