覚者慈音367



未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その24
 次は五流界より三流界に至る迄の説明
                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 世人の世界の仏法者が語り居る三宝即ち、仏法僧とは魂心体を指したるならん。魂は不滅の大師にして、心は魂より生れたる法なり。故にその法より体を支配す。此体に相当するものを僧と云ふなりと考ふれば、三宝とは所謂汝等一人々々の姿全部を指したりと思はば、三宝の尊さは所謂唯我独尊の結果となるにてはあらざるか。この理をよくよく翫味すれば、魂の不滅の理は察せられる筈なり。我等の語る魂(こん)と云ふも魄(はく)と云ふもすべては魂(たましい)なり。所謂魂魄一体となりて、真の魂(たましい)となるなり。かく語らば従って滅の肉体に重点ををくべきか、或は不滅の魂に重点をおくべきかは自ずとさとる事を得るならん。我等も不滅の魂を育てたるがゆえに、今尚存在して世人を導き居るなり。今後と雖も我等は死するものにあらず。死せざる世界に至らずば真の自由は得られざるなり。自由得られざれば楽みも亦得難からん。楽みとは何かを考へ見よ。希望より希望とはてしなく続くが故に楽みはあるならん。希望尽れば楽みも従って消滅す。希望は何によってつながるるか。これ法なるが故に消滅す。肉体にまかせなば肉体は限度あるが故に消滅す。然らば何によって楽みは得らるるかを考へなば明らかにさとりき開らかるる道理あらん。余分の事に心をいたむれば心は法なるが故に苦む。是を魂にまかせなば魂は法を作る原動力なるが故に心も滅せず。是によって安らかならん。この表現が不分明なるが故に、世人には解し難からん。されどこの言葉をよくよく咀嚼翫味せば自ずと、さとりは得らるると我はかたく信じての言葉なり。迷へば法は力を失ふ。迷はずば法の力は強し。世人は迷ふが故に法は得られざるなり。迷はずば法は徹す。汝等心を乱すと云ふは即ち法を乱し居るなり。肉体は巧力をそなへ、心は法力を備ふ。魂は其すべてを産み出す原動力と知らば、法力巧力共に自由の働きをなすことも疑ふの余地なきなり。即ち肉体消滅すれば巧力は影を没す。巧力失はば法力の要もなからん。法力巧力何ぞあづからんと仏書にも示めしあるにてはあらざるか。大切なるものは前途に希望を抱く魂ならでは、真の安楽は得られざる道理を考へて、ここに一段の工夫を要す。迷ふことなかれ。


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