覚者慈音366

未知日記 第十巻  帰途案内記




                      その23
 次は五流界より三流界に至る迄の説明
                            
                  セイキヨウ貴尊 講述



 又テッシン貴尊が二流界に生をうけて、現在に及ぶと仰せられたる事に対しても、世人はその如何なるかを認識すること難からん。是等に関しては追々語るべけれど、先づ先に五流界以上の事に関してくはしく語らずば、其等の意味はさとること難からん。よって其等の組織とその他種々様々の事柄より語る事とせん。五流界を魂界(仮称)と定め、四流界を魄界(仮称)更に三流界を魂魄界(仮称)と定めて順次語るべし。先づ五流界魂界より語らんに、魂界は六流界、心意界(仮称)とは全くすべてが異なり居りて進化なしたる人間なるが故に、肉体組織に於ても全くその形状を異にし居れど、矢張り肉体のそなはりを有し居るなり。六流界(心意界)の人類は魂と云ふものの潜在なし居りて、表面に現はれあらざるが故に、魂は所謂縁の下の力持ちの如くなる働きをなし居るにすぎず。然るに魂界に移さるれば魂は主となりて、心意は潜在して働くが故に雲泥の相違あるなり。即ち心意は影となりて肉体を擁護なし居るにすぎず。故に心意は魂の下僕の如くなる役目を有し、魂は主人の関係と知らば察することを得るならん。例へば我魄界にありて心意に命じて、慈音の処に至らしむることをもなし得らるるなり。我神命をうけて他界の任にあたる時は、心意に命じて慈音其他すべてのものにあたらせ居るなり。斯く語らば世人は聊か解することを得たらん。魂界ともならば斯くも自由の行動をなし得ることを得るなり。我等かかるお伽噺に似たる小説的の事柄を事実なりとして語るとも、世人には到底納得する力は備はりあらざるべし。
 今慈音が欣情に対して語り居るを聞けば、かかる虚説は実に真をおくものあらざるべしと。慈音に於てすらかくの如き言葉を発す。まして世人には空想の空想として、耳を傾くるもの一人としてあらざるべし。斯る事は我等万々承知の上なり。されど円海の如く事実を知るものは迷ふことなく一路昇天なし来りたるなり。我かく語るともその円海なるものの説も虚説なりと思ふならん。疑ものは疑ふべし。信ずるものは信ずべし。決して迷信妄信にあらず。大凡天界に移されたるもの何の益ありてか、世人に虚説を弄して欺く事をなすもの一としてあらざるなり。世人の世界こそ虚偽多けれど、天界には虚偽はあらざるなり。信不信は汝等の意志にまかせん。余事は兎に角魂界ともならば、斯くの如く自由自在の道は開かれて、何等束縛せらるるものにあらず。是即ち霊魂不滅なるが故なり。心意は魂に従ひて法を以てのはたらきなれば、所謂魂に支配されて影を宿し居るにすぎず。我等心意は法なりと語りしはここなり。
 








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