未知日記霊話集千百八十三回 光明論 下巻 巻の十 短歌に「いそがずばぬれまじものを旅人の、あとよりはるる野路の村雨」とか云へるを我は聞きたり。汝等はぬれずして旅せよ 教主寛大講義


未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の十 
完結篇
                     教主寛大 講義
                    

 人を導きて信仰に入らしむる方法には種々なる道あれども、是を大別せば順応信仰と恐怖信仰の二つに帰せしむる事を得るなり。順応信仰とは我が語る法則にして、恐怖信仰とは宗教者の説く論説の信仰なり。されば宗教者はあまりに神を恐しきものとして人間の悪事を厳に帰せしめんとなしたる結果、人は怖れて却て神より遠ざかるに至りたるは現今の姿なり。又専門的に粉骨砕身して修行を重ね、世間よりは活神活仏など称へらるる者が女人の情に堕落し或は私慾のために永年の行を空しくするも、即ち恐怖よりをこる迷ひの信仰のあらはれなりと知るべし。恐怖の信仰とは縦の信仰にて横に欠くるところ多き故に危し。恰も天界よりたれ下りたる紐を下方よりよぢ登るに等し。半途にて手足に疲労を感じ力尽きて顛落の憂目を見るもの多し。斯る結果を招来するも神罰をあまりに恐るる故によるなり。世に名僧智識と称せらるるもの一婦人の色香に迷ひて寺を開らくと云ふも彼等は恐怖の信仰の結果なり。彼等は戒律を厳守して仏を尊び、もし此戒律を破らば八幡奈落へ顛落して永久の苦はまぬがれじとの信仰が暗示となり居りて、一旦心に乱れを生ずればその暗示が忽ちはたらきて通力を失ふ。即ち善にも強ければ悪にも強くはたらく。この理はセイキョウ、テッシン等によって説かれたる気光素のはたらきなりと知るべし。彼等にしてその度を増し最後の地点迄到達なしたる後、衆生に接するならば如何なる悪魔にも犯されざるなり。恐怖信仰にはかかる弊害あれど、順応信仰にはかかる危険はあらず。さりながらあやまち多き恐怖信仰は目的の本願成就は、順応信仰よりも速なるは云ふ迄もなし。順応信仰は恐怖信仰に比してやや時間を多く要すれども奈落に顛落する恐れあらざるなり。汝等の短歌に「いそがずばぬれまじものを旅人の、あとよりはるる野路の村雨」とか云へるを我は聞きたり。汝等はぬれずして旅せよ。又高山の頂上をきはめんとなすにあたっても正道を捨てて道なき険阻を択ばばたとひ目的を達したりとも手足に負傷を生ぜしめ、あやまてば顛落惨死の憂目を見るのみ。人は異法を好む性質あるによってわざわひは免がれ難きなり。されどこの異法を好むも何かの発見をなす智慧のあらはれなれば、是を正しく活用せば新しき発見はなすことを得る利益ともならん。故にこの心は捨てずとも可なり。

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