覚者慈音361

未知日記 第十巻  帰途案内記



                      その18
 おきく婆さん                参
                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 昔は人肉を売買なして奴隷となし、恰も獣類の如く取り扱ひなし居たりしが、近頃は稍々覚醒めて斯る事の悪きを、悟り来りしにてはあらざるかに思ひをはせよ。然して是を己が肉体にとりて考へ見よ。肉体に美服を纏はせ、又肉体に美食を食ませ、其は誰を喜ばしむるかを考へ見ば、明らかに知らるる如く、肉体は斯る事をせられて喜ぶと思ふや。恰も親が嬰児に着飾らしめて、笑壺に入り居ると同様にて、嬰児に取りては何等悦びにてはあらざるべし。肉体も着飾らされたりとて喜ぶにあらず。美食を食まされしとて是も亦喜ぶにあらず。多く食まさるれば、却って是を消化さするに、困難を感じて迷惑ならん。唯悦に入るものは心なるべし。斯く考へ来る時肉体が我心に臨終迄あたへられし任務に対して、感謝の心もて彼に酬ひるにあらざれば、真の愛情とは言はれざるべし。
 演劇を見て眼を喜ばしめ音楽を聞きて耳を楽しますと思ふも、是肉体を奴隷視なし居るに他ならず。世人は肉体を奴隷視して、其が正しき栄耀栄華の如く思ひ居りては、肉体にとりて疲労を与ふるのみにて、彼を喜ばしむるものは何一つとしてあらざるなり。肉体は疲労なさしめざる程度にいたはりやりてこそ、情心にてはあらざるかとの念を起さば、生死の区を明らむる事の理は、頷き知る事を得んと思ふが如何、斯く迄語りて世人に解する力なければ、今少し信仰の力を養へよと云ふの他なし。さればこそ円海が此話をするに先だち、或僧の処に至りて仕合はせとは心の持ちかたの如何によると答へしと云ふ。此言葉の意味が思ひ出されて、其処に何か一種の明らめさとりは、あらざるかと念を押して此話は是にて止めん。
  されど今一つ附言しをく事あり。其は他ならず。我等しばしば語り居る心を、肉体に向けず魂にむけよと云ふに対して、世人は今尚その真相をつかむあたはず、迷ひ居るが故に、円海の話に端を得て、是によってさとりの道を開らかしめんと思ひてなり。世人は肉体によって心を慰めんと計るにより、肉体を苦めて奴隷の如く取り扱ひをなし居るなり。今是を魂にまかせて魂より、楽みをうくる方法を考へ見よ。
 例へば娯楽の為に物見遊山に出でんと計る時、何かの事故ありて行くことあたはずば、余儀なき諦めをなすならん。斯る時其処に何か心の底より、その諦めをなさしむるものありて今行かずとも、又後の機会あらんとの考へを起すならん。即ちその慰めを与へ呉るるものは肉体にあらずして、其は魂なるべし。故に魂の方向に心を向け居らば、心は魂に依って慰めせるるならん。是を心の持ちかたと云ふなり。心の持ちかたを明るくせよとは、即ち魂にむけよと云ふ事にて、是を暗き方向にむくると考へなば、自づと魂と肉体との区別は察せられる筈なり。誰かの道歌に「世の中を暗く渡らば死出の旅、生きて明るき道を歩めよ」と云へるあり。汝等日々の生活は、死の旅を続け居るにて前途は暗し。故に明るく生きて前途の光明を求めよと教へたるならん。汝等の生活は生きる生活にあらずして、死の生活をなし居るにてはあらざるか。日々を生きて明るき生活に変へよ。老婆の語りし仕合はせとは、即ち前途の光明を楽しみつつ進み居るなり。彼女は前途を明るく眺め居るが故に仕合はせなり。人間の肉体は背後に眼なし。後退する歩みは危ふし。眼ある顔を前途に向けて進み居らば世は明るからん。何れにもせよ。生きんとする希望を失ふ事勿れ。希望を失はば死す。生きんとするに対して希望をつなぎ居らば永久生の持続となり、其希望を失はば忽ち死の暗きに転落す。斯く考へて日々を明らかに暮せよと語りて此講を閉づべし。




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