覚者慈音362

未知日記 第十巻  帰途案内記


                      その19
 更に八七六流界に到る迄

 慈音再童の座につく                            
                  セイキヨウ貴尊 講述


 慈音は己を知り己の拙劣なることを悟り居るが故に、我等が導きて彼是見聞なさしめ居れど、そのままを世人に語るとも、己の程度を低くして他人を信ぜしむる事あたはずとの念を、深くして語る事を避け居るなり。我等はいたく是をあはれと感じて、すべてを彼が心のままにまかせ居るにすぎず。されど是以上の事を世人に知らしむるには、何日迄も彼をして迷はせ居りてははてしなしと思ひて、教主に此事を訴へたれば、教主は是を許し給ひて我をして其諾を慈音に伝へよと命ぜられたり。よって十月廿九日(昭和二十四年)こだま会に於て突如彼に教主の命を伝へたり。然して彼をして再童の座に進められたり。されば今後は彼を呼ぶに再童慈音として、此書に記録する事となしたり。左に教主の言葉を掲げて記録に止めをかん。
 
「汝、慈音よ。汝は我いましめをよく守り、よく行ひて其苦に堪えたり。我是を嘉す。よって今日そのいましめをときて汝を導かん。よって汝は今後再童の座につく事を許すべし。汝より取り上げをきし行力は是を倍加して汝に与へん。是を諒として一層励み他を導きて共に正道を歩ましむる事に努力せよ」と、仰せられたるなり。
 是に対して慈音は我に問ひて曰く、我慈音教主の許しを受けて肝に銘じ有難しと思へど、今後我肉体の組織あらたまらずば世の中の人は我を信ぜざるべし。然る時は教主の仰せも其が為に傷かんことを恐る。是は如何にすべきかと。我答へて曰く、その言葉はよし。されどすべてを教主に任せて己が肉体のことなど彼是と考ふるの余地なし。たとえ汝の肉体が如何に変ずるともすべては教主の意志に任せよ。今後肉体の自由失はれてたとひ床の中に呻吟すとも、其は汝の罪にあらず。すべては教主の心任せなりと思ひて、何事も一切すべてを教主にゆだねよ。其にてよし。たとひ世人が如何に汝に眼を向くるとも其は世人の心任せなり。決して汝の罪にあらず。教主の意志に従ひて唯己が任務を務めとして守り居らば、其にてよしと教へをきたり。


 汝等、仏教者が信ずる釈迦の言葉に汝等、「我は良医の如し。病を知りて薬を説く。服すると服せざるとは医の咎にあらず」と語りたるにてはあらざるか。仏教信者は釈迦と云ふ偉大な人格者に対してすら服するもあり、服せざるもあることを釈迦は余儀なしとして、斯かる言葉を残したるにてはあらざるか。釈迦にして斯くの如し。まして慈音に於てをやと我等は思ふが如何。世人の心はかくの如き浅はかなる智慧より具はりあらざるなり。世人の口にし居る大名も乞食もおなじ桜花と云ふ句あり。この句の意味をよく考へ見よ。釈迦が語る言葉も乞食が語る言葉も、理あらば是を正しとして用い、たとひ釈迦の言葉にもせよ、理なければ正しからざるべし。理あらば乞食の言葉も正しとして信ずる底の智慧ならでは、世人の修養修行は全からざるべし。即ち大名の桜も乞食の桜も桜と云ふに変はりなからん。されど世人は大名の桜を尊び、乞食の桜を厭ふ底の修行なるが故に人智は進まず。よって今後誰の言葉にもあれ、正しければ信ずべし。たとひ人格高き人なりとて理なきことは信ずるの要もなからん」と



 

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