覚者慈音359

未知日記 第十巻  帰途案内記
 

                      その16
 おきく婆さん  
                   
                            

                  セイキヨウ貴尊 講述



 我等は空路より空路へと辿りて今は天界の安きにあり。故にその実験より踏みたるままを世人に伝へ居るに他ならず。決してあやまちたる事を語るものにあらねば、信ずると信ぜざるとに不拘、その実を伝へて世人に知らしむるのみ。信不信は世人の心任せなり。信ずる人は信ぜよ。信ぜざるものは信ぜずとも可なり。唯聞き流しになすも其は世人の心まかせなり。されど軈ては世人も事実に直面する日は遠からざるべし。その時に至って我等の信(まこと)なりしことを信ずるに至らん。兎に角眼に耳に見聞しをかば未来の参考とならん。其にて我等の使命は達せられたるなり。
 我、慈音を如意界に導きたる時、慈音は我に向かひて、「ここは地球のうちに存在する処か」と聞きたる事あり。我、然りとも然らずとも答へざりしが、是を地球より幾十億里かの処なりと語りなば、慈音は驚愕して戦く他なかるべし。距離の有せざる処を、距離より確定して語るとも慈音には、現在は兎に角その頃は未だ認識する事を得ざりしなり。もし地球を標準としてこの処を測定するとも其は及ばざるが故なり。斯ることをここに説明すとも世人には、認識する事を得ざるは当然なり。如何に口をきはめ筆を運ばしむるとも到底及ぶべくもあらざるなり。


 地球はその大なる絶対境の中に包含せられたる一個の細胞にすぎざる故なり。汝の呼吸は軈ては静止する日は遠からざるべし。されど汝の生は長し。霊魂不滅の学理は学者によって研究せられ居れど、今尚その信を得ることを得ざるならん。或は不滅と云ひ或は滅すと論議するのみにて、徒に光陰を空しくなし居るにてはあらざるか。宗教者は釈迦は死し、キリストは死しても今尚存在すと語り居れど、其は彼等の行跡が残り居るにて、彼等の生命は何処にあるやは知らざるべし。昔より伝へられたる大悪人と雖も悪行を残し居るにて、彼等の生命は残り居らざるなり。然りとせば死すれば魂は残らずして行跡を残すのみとならば、汝の地球亡びなばすべては滅するにてはあらざるか。然りとせば魂の不滅論は成立ざるべし。然るに我等は霊魂不滅の理路を喋々すとも、現在の学者にすら徹底せしむる事至難なり。されど我等は死せずして今尚生を有すのみならず、天界に生存なし居るものの余りに多きを知る。故に我等は事実に於て霊魂は不滅なりと語り居るなり。
 十月十五日(昭和二十四年)こだま会に於て円海が語りし、おきく婆さんと云ふ人の話を、会員に語り居りたり。所謂彼の老婆は永久死せざる人にして、人間に取りては全く幸福の仕合はせものにてあらざるかと云ふことに考へを廻らさば、財宝の有無は仕合はせを、意味するものにてはあらざる事の理も、推して知らるるならん。さればこそ彼の老婆は「我程仕合はせものはあらじ」と語り居りたるなり。然して彼女の臨終に当たりて語りたる言葉を此の書に掲げん。彼女曰く、「のいて長者が二人の譬喩、身心一体となり居らば共に悩みはまぬがれず。心されば身は安らかなり。心も亦自由を得て安楽なり。故に死するは仕合はせなり」と語りし言葉を世人は聞きて何と考ふるや。世人の思ひにてこの事にすら、唯空しく聞きのがし居るにてはあらざるか。彼の老婆こそ死せざる人なり。彼女は安楽より安楽へと、永久持続し行くならんとは考へざるか。この会の時此話を聞きて心の底より是を悟り得たる人ありしか。我に言はしむれば一人としてあらざりしなり。唯慈音のみが深く感銘して、拝みをなし居たるを見たるのみなり。斯る事にて世人の信仰振りは、未だ信仰の位置に到達し居らざる事を我等は痛嘆す。汝等円海の話を、友達の雑談の如く聞きのがし居りては勿体なしとの観念は起らざるや。今少し心を改めて、真剣なる態度にて、聴聞せん事を望むものなり。

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