覚者慈音358   八流界の人類とは     未知日記 第十巻  帰途案内記    セイキョウ貴尊講述


未知日記 第十巻  帰途案内記
          


                      その15
 八流界の人類とは  
                 セイキヨウ貴尊 講述


                


 世人のよく口にする有相(うそ)より出でてたる信(まこと)と云へる言葉の如く、人は空なるものを聯想して、其れによって実在せる真を生み出すこと多からん。すべて科学的の発明は嘘より出でたる真なるべし。ものを想像してその想像力を理によって考究なし居らば、実在的の真は得らるるものなり。されば光明論に於ても世人は書物の上にまなこを致して其によって想像力を伸し居らば、従って信は成立して軈ては成就することの理もうなづかるるならん。肉体を異国の地にをきて故郷の妻子を思ふ時、既に肉体と心とは分離せられて肉体は異国の地に、心は我家に帰り居るにてはあらざるか。是即ち転界なしたる姿なりと知らば可ならん。異国の地にありて故郷の妻子の有様を空想する時、妻子亦汝の身の上に思ひをいたし居るならば、相互の心が一体化して空想ならぬ真実を生むこと、しばしば体験することはあらざりしか。斯ることはよく誰もが経験する処にて、何月何日の夜何時頃汝は我もとに来りしと云へる如き、例は少なからずあるならん。是等は肉体の転界にあらず。心と心が相互に転界なしたる姿なりと知らば、その事柄より推測して五大鏡八大門を想像し居らば、軈てはその実情のまことを肉体を有する間に、確実に認識すること難きにあらざる道理を考へなば、自づと魂の眼を開らく法は工夫せらるる道理あらん。即ち信の緒(いとぐち)は是によって開らかるると知らば可なり。始めは夢幻の如く目蓋に浮かび居りたる事も、是に信の力加はり行くに従ひて、果ては真のものを見きはむるに至るなり。是等に対しては前書より屡々語りし如く、種々様々の障碍ありて信(まこと)のものを確実に見きはむる事は、容易の修養にては得られざるなり。一度あやまてば空中楼閣を作りて迷ひ入ることも多し。故に確実なる指導者を択ばずば、危険に瀕することは云ふ迄もなし。正しき宗教は信ずるもよけれど、不正の宗教は心して信ずることを止めよと説き居るも、かかる危険を伴ふによってなり。悪魔を信ずれば魔道に陥る。是魔界に転ぜられる故なり。信の力は斯くも強し。
 この信のはたらきを応用して正しきに進めば、生は正しく延びて栄あれど、一度あやまてば生は暗黒をさ迷ひて、際限なき苦みを味はふ結果となるによって、宗教は正しきを択ばざるべからず。宗教の真髄を一言にて喝破するならば、即ち信の力をおこさしむるを目的となし居るによって、即ち宗教は信の一事に帰すと云ふも過言にあらざるべし。もし我等に対して宗教とは何なるかと聞かれなば、宗教の奥秘は即ち信にありと答ふるのみ。他はすべて枝葉なるにすぎずと語るなり。悪しき宗教は悪を信ぜしめ、正しき宗教は善を信ぜしむるに他ならず。仏教の如く或はキリスト教の如く極楽天国を語り居れど、帰する処は娑婆に存在する間に人道を全うせしむるのみにて、極楽天国は想像によって語りたるのみなるが故に、其は宇相(有相)にすぎず。故に教主は宗教は宇相(有相)なりと説かれたるなり。宗教者はいたづらに来世を語り居れど、其は唯現在のあやまちをなさざらしめんが為の方便にて、所謂来世の空なるものを応用して、恐怖を誘ひ居るにすぎざるなり。我等は世人をして恐怖せしむるものにあらず。現世に於て如何なる行ひをなすとも道をあやまたずば、正しき転界は得らるる道理を語り居るに他ならずと知るべし。故に我等は宗教者にあらずと語り居るなり。

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