覚者慈音352

未知日記 第十巻  帰途案内記
                その10



魂霊を見つける法  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 
 第一の場合の如きは天界を知るによって、是は語る迄もなく、下界と天界を存命中より往復なす力具はりあるによって、是は問題とはならざるなり。第三の場合の如きはその種類きはめて広くして複雑且つ微妙なる関係あるなり。
 信仰なきもののその悉くが、浮住界に於て迷ふかと云ふに事実は然らず。前にも語り居る如く、信の力は誰にも具はり居るものにて、表面化すると潜在なしてそのまま終るとの区別あれど、信の力は自然性なれば失はるるものにあらず。唯強弱の相違ありて稔りを全うするものと、然らざるものとの区別あるのみなり。是等の道理より考察すればたとひ神を知らずとも、自然に順応して人道全きを得たるものならば、神を知らずとも是等は浮住界より如意界に移され、更に又他の場所に於て修養し、然して魂の稔り完全になりたらば、又界を変へて其々到るべき処に移さるるは云ふ迄もなし。故に信なきものと雖も人道を正しく渡り居らば、其は自然に順応したるものにて、信の力は表面に現はれずとも、二葉を出して最後は稔りを得るに至ると思はば、要は人道を正しく渡るに不如との結論となる。然るに人は肉体に重点をおくによって、人道を正しく渡る人は少なし。大抵は横道冥道に迷ひて自然より遠ざかる故に、浮住界の苦はまぬがれざるなり。是等の事柄より
宗教の必要に迫らるるなり。然るに宗教の多くは人心を迷はすのみにて、正しく人道を導くことを得ずして、却ってその宗教がわざわいとなりて迷信妄信を誘発し、為に浮住界を賑はすことの多きは真に遺憾の極みなり。宗教を信じて信の力拡大するとも、誤たる道を踏まば、その信の力の為に却って苦をまねく事多し。故に宗教は選ばざるべからず。
 我等の見る処には宗教者の教へ導き正しからざるが故に、浮住界の苦をまねき居るもの夥(おびただ)しくあるを見て、実に憫を感じ居るものなり。信仰の力はきはめて大切なり。されどその信の力が迷信とならば、身を亡ぼし魂を傷くる結果となる。真に恐ろしき事なり。其は兎に角第三の場合と雖も、神を罵り己が智慧に誇る如き人は、正道を歩む人にあらざるが故に、勿論是等は浮住界に苦みて、使子の手をのがれて尚も苦みを重ね居るもの、是又少なからずあるなり。世人は肉体を有する間の苦みを、長き苦みと思ふは誤りなり。又肉体の苦みに慣るれば、他より見る程の苦みとはならざる事も多からん。されど浮住界の場合の苦みは、習慣性の苦みはあらざるなり。肉体の苦みは或る場合麻痺状態となれど、浮住界の場合の苦みは度を重ぬる程猛烈となり、何時かは失はるるものにあらずと知るべし。故にかかる場所にて苦まんよりは、肉体の苦みの短き間に、滅後の苦みをうけざるよう修養して正道を歩むに不如と、我等は世人に注意なしをくものなり。されど世人は我等の説を否定するならば其れにても可なり。我等は信不信に不拘、ありのままを伝へて世人の参考に供しをくのみ。厭ふものを無理に導かんとはなさざるなり。是は空なるが故に、実を伴はしむることを得ざるが故に、余儀なく斯くは語り居るなり。我等の語り居る説を聞きて、世人は誇大に吹聴し居ると考ふるならん。されど事実は然らず。我等の語り居るは大海の一滴の水にも及ばざることを語り居るにて、事実を如何に世人に知らしめんとはかるとも、筆舌の及ばざる程、宇宙は広大無辺なり。まして全宇宙を語り尽くすことを得んや。

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