覚者慈音351

未知日記 第十巻  帰途案内記
                その9


魂霊を見つける法  
                 セイキヨウ貴尊 講述



 此所はきはめて複雑なるが故に、その一々を列挙して説明なし居らば、枚挙にいとまなし。故に省略して、霊によって運ばれ来りたるものの種類を、二三区分して説明することとせん。霊に依って運ばれ来りたるものの中にも、種々様々なるあるなり。智慧すぐれて下界に於て人道を無視して、その智慧のみによって世を攪乱し、人としての行為をせずして、魂の緒の切れたるものと雖も、其智識がはたらく為霊は是に従ひて、伴ひ来りたるものも多し。斯るものは洗魂所にて再び下界に堕さるるは云ふ迄もなし。中には動物として堕さるるもあり、又人間としておろさるるもあれど、其はその魂の熟しかた如何によって、再び人間としての任務を果さば、其は後に天界に採用せらるるかもはかられず。されど動物界に転落したるものは、又も人界に入ることは容易の事にあらず。我、斯く語らば、世人は宗教者の語り居る地獄極楽の教へを、真として聯想するならん。されど我の語る処は宗教者の称ふる如き意味とは、相似て等しからざるなり。米の例にて語りし如く、稔らざる故に棄てられたると同様の姿と知らば可ならん。所謂よき米は人間が食し、悪しき米ならば家畜に与ゆると同様の関係あるが故なり。
 動物魂にて人間におかるるものはよく稔りたる麦の如く、是は人に喰はるることもある如く、所謂動物より人間に変ぜしめられたると同様と考ふれば可ならん。滅後地獄にて鬼にせめらるるとか云ふが如き譬喩にはあらざるなり。人には人としての稔りを得んが為に、人としての順序を正しく踏むにあらざれば、人の実は結ばれざることは今更語る迄もなし。されど人は其を知らず、他に近道を考ふるが故に、瞑道にさまよふによって、人としての稔りは得られざるなり。瞑道とは動物性を云ふなり。人道とは光明の道を歩めよと説き居ることに思ひを致さば可ならん。
 智慧すぐれたりとも邪知ならば其は瞑道にして、即ち動物性となるによって、最後は動物に転落するは当然なるべし。宗教者の説と混同して考ふること勿れ。同じ霊に運ばれ来るものの中にも、今語りたる如きは如意界の順路を経ずして、直ちに選魂所に入りたるものなり。されば如意界を通過して此所に来りたる魂ならざるべからず。如意界を通過して順序よく運ばれたるものは、大抵は人道を正しく歩み来りたるものにして前に語りたるものにして前に語りたる第一第二第三の如きは、みな如意界より移され来りて是は使子の手を煩はし居るものにあらず。故に第一の選魂所は大抵ことなく通過して、又次の選魂所に進むもの是又少なからずあるなり。されど第二の場合の如く未だ籾を脱がざるもののうち、是は再び下界に移されて、又も人間として育てらるるものも少なからずあるなり。されど是等はたとひ再び人間界に移さるるとも優秀なる人間として、下界におかれたるものなれば、動物性の苦みはあらずして唯人間性の任務を果して後、更に天界に運ばるる優秀なるものとなることは云ふ迄もなし。



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