未知日記霊話集 第千六十六回 光明論 下巻 巻の七 汝等肉体を有する間にこそ肉体の苦患より度脱して絶対のさとりを得て不滅不変の境涯に入らんことを学すべきなり。昨日は彼の門に跪き、今日は是が門に跪く如き、俗に云ふ内股膏薬の宗教は避けて万代不易の宗教を択びて学徳を修めて精神の導きとなさざれば一生涯を迷ひに終るのみ  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について



                セイキョウ貴尊 講述
                

 汝等肉体を有する間にこそ肉体の苦患より度脱して絶対のさとりを得て不滅不変の境涯に入らんことを学すべきなり。昨日は彼の門に跪き、今日は是が門に跪く如き、俗に云ふ内股膏薬の宗教は避けて万代不易の宗教を択びて学徳を修めて精神の導きとなさざれば一生涯を迷ひに終るのみにて不安より不安の世界に進むのみ。覚ることを得ざるのみか、霊光の影だに見ることを得ざるべし。太陽は昔も今も変りなく地球を照す。地球も是に従ひて廻る。唯変り行くは相互の表面の姿のみなるべし。人間に於ても亦然り。昔の人の心と、現代の人心は人間の表面なるによって変化あれど、霊には古今を通じて変りなきことに思ひ廻らさばさとる道はうなづかるべし。汝の肉体は小児より老人に化すれど嬰児の心百才迄と云ふにあらずや。肉体と共にある心は肉体の変化に従ひて変化すれども、霊は決して変化する事なき事を教へたるなり。人は高齢に達して若かりし気分を忘るるものにあらず。さればこそ修養の有無に不拘肉体より離るるを厭ふなり。汝等は我事を棚に上げ道行く老人の弱弱しき姿を見て、彼の姿になりても死を厭ふなるかと批評し居るを我は屡々耳にす。早く修養せよと誡め居るなり。覚り悟りて再び迷はぬ真理に入りて其後世間を眺むれば、此世間の有様は今迄眺め来りし世間とは全く異なりて汝の眼に映ずべし。今迄美はしと思ひしものが案外汚れたるものに見え、又是に反して醜くし思ひしは実に美麗なりしに驚くこともあるべし。顔に紅粉を装ひたる女を美はしく眺め居たる若き日の思ひ出を老人となりて後に比較し見よ。其にすら異なる見方に気附くことあらん。まして悟せざる昔と、悟したる今とに於てをや。汝等にも察せらるるならん。智慧のさとりを得んと欲せば容易の修行にては目的を達する能はず。故に無智となれ。智慧の衣を捨てて全く無智の裸体となりて悟の美服を纏ふべし。智慧の衣は汚損の憂あれど悟の衣は斯る憂なし。ここに汝等に注意することあり。其は余事にあらず。我、汝等によく聞くべしと云へる言葉を用い居るに対してなり。是に対して汝等は誤解し居るを知りたればなり。汝等は聞くとは耳を傾けよと云へる意味に解釈し居るに気附きたればなり。耳を傾くるは肉耳の響きなれば何の術もなし。我の云ふは精神に聞かせて判断せしめよとの意味なれば、聞きて実行せよと云ふなり。悪は捨て善は拾ひて己のものとせよと云ふ意味なれば此心して聞くべし。薬の利目或はよく利く薬と云へるききかたせよとの意味なり。
 信者は一切を捨てたり。然して心の汚れなる衣服を脱ぎ捨てて天女より新しき衣を纏はされたり。是より彼は通力自在の身となりたれば如何なる悪魔も彼は犯すこと能はざるなり。天界に導かんとて天女は手を挙げて雲を喚び、信者を乗せて神界に飛び去るとは天女の手、即ち慈悲のわざ、神の力にて通力自在の雲に運ばれ行く様を説きたるなり。修養修行によって智慧にたのまず智慧の衣を捨てて霊の衣に改むれば、通力自在の境地に達することを教ゆるにて尊き教訓として、九流界にては此教へに従ひて勉学なしつつあるなり。

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