未知日記霊話集 第千六十五回 光明論 下巻 巻の七 我に於て善悪の区を明らむる力なければ何れに従ふも我の罪にあらず。我、神を信ず。智慧及ばねば一切を神に任せて我は沈黙せんとここに信仰の悟は開かれたり。即ち智慧に誇る者は悟を得るは難しとは此理なり  セイキョウ貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の七 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  下
霊の役目と其動作について


                セイキョウ貴尊 講述
                

 信者は山に登りし時再び天使下り来りしとは如何なるかと云ふに、是は天使になぞらへしが、即ち霊は魂魄に来りしなり。されど娑婆にありし霊と天界に昇る途にある霊との相違を示めしたるなり。魂魄を肉体より引きぐして導く霊は、其案内者として重大なる責任を有するによって魂魄に対して油断をなさしめざるよう注意を与へたるなり。若し捨ておかば魂魄は宙に迷ふのみならず、悪魔に捕はるれば長久の苦はまぬがれ難し。然る時は霊は使命を果すことを得ざるによって再び魂魄に注意を与へたるなり。又二人の女を現はせしも深き意味あり。女は一種の魅力を有す。即ち動物の母なれば親しみを感じ、やさしみを覚ゆるに依て恐怖の念を起すことなければ此理を会得せしめんとの為なり。又女は引力性に富みたれば魂と云ふ電気を発電せしむるには陰電の力によって、天界地界両方面に案内する役目も気光素電気についての資料として考究せば得る処多かるべし。女来りて魂魄は又もや霊を背後として否霊に背をむけて彼等の正不正の区を明らめんとの思ひを強く働かせたれど及ばず、此処に至って初めて正しき悟を開きたり。すべて人間は己の智慧の及ぶ間はその智慧にたより居りて悟は決して得らるるものにあらず。万策尽きて何者かを求めんとなすは一般の習性なり。窮すれば通ずと云ひ居るも是なるべし。窮して全くすべてを捨てて事にあたらば思ひもよらぬ名案の浮び出づることは汝等にも経験はありしならん。信者は魂を彼女等何れかに与へんと覚悟したり。悪に従はんも我にあらず。善に従ふも亦我ならず。我に於て善悪の区を明らむる力なければ何れに従ふも我の罪にあらず。我、神を信ず。智慧及ばねば一切を神に任せて我は沈黙せんとここに信仰の悟は開かれたり。即ち智慧に誇る者は悟を得るは難しとは此理なり。智慧のさとりはさめ易く、信仰のさとりは不滅なりとは是によって察するを得ん。信者は天上に到る迄の信仰は未だ肉体に対して何かの欲望を有し居たるにより、智慧に囚はれありし為、さめ易きさとりを有せしのみにて、絶対のさとりは肉体を捨ててはじめて得られたるなり。

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