未知日記霊話集 第千十三回 光明論 下巻 巻の六 怒りて鞭打つは憎みにして愛の鞭は慈悲なり。即ち神のとがめは憎みにあらずして愛のせめなり。心の融和を計らんとならば、先づ是等の区分を明白にせば自づと道を知る事を得ん セイキョウ貴尊講義

未知日記 第六巻 光明論       
下巻 光明論 巻の六 
教主講、セイキョウ貴尊解説
悟道篇  上
五味は如何にせば整へ得らるか


               セイキョウ貴尊 講述
                
                   215番



 ここに注意を用することは分解性と感受性の区分を明白に区別せざるべからず。人の喜怒哀楽は永年の習慣より生ずる事故によって軽重を現はすこと多し。例へば同一種類の品物に対しても甲は由緒深くして尊く大切なれど、乙は近代購ひしなればさのみ重要とは考へず、ここに同一のものにも差別はをかれあるなり。然るにもし由緒ある品を破壊せられたる時の怒りと然らざる品の破壊せられたる場合の怒りの程度に相違あるは、そは分解性にあらずして感受性と見なすことを得。何となれば其等は習慣性知覚の心が直感するによって直ちに反射作用を誘導するによってなり。されど此貴重品が他人によらずして己自らが破壊したる場合は怒りの心を生ずるかと云ふに、是には潜在する怒りと落胆と二種が混同して現はるるなり。この珍現象が或は苛立ち或は不安と責任を感じ如何にかして是を何とか処理せんとしてここに分解作用と変化なし行くなり。然して近来求めし同一品を代表たらしめんと計画し、其によって不安を除かんと計れど及ばざるなり。其は真ならざるによる。若し是を偽はらず記録して謝するによりていささかの慰めとなさば少しは悩みも軽くならん。
 例へば処女にあらざる娘を処女の如くよそほひて他家に嫁せしめたる母の心の悩みは如何あらん。もしや露見はせざらんかと日々安からぬ日を送り其がつつがなく納りたりとて、母の心に残る疵は永久失せざるに等し。過失とは云へ又貞操を汚したるは娘なり。然るに其責は却て母の心に疵を残すとは世の中の法則約束は不思議の現象ならずや。斯る法則は神の定められしかと云ふに其は然らず。是は神の慈悲心は他人に及ぼすとの原理が生みし法にて、所謂神は他人に恩恵の愛ををくる如く親が子に尽す愛は、神の其に類すとの恩愛より現はれしさだまりにて娘は他家に嫁する迄の責任は親にあり。わけても母の責任なるかの如く思はるる習慣性の法則なるによりてなるべし。「疵持つ足は笹原厭ふ」の比喩の如く、一旦疵つきては終生拭ふも清くはならざるべし。一度刑を受けて獄舎の苦をなめたる者は、其罰に従ひたれば罪障消滅して清き身体となりたる筈なるに、他人よりは彼は前科者なれば信じて交際をなすは如何と、尚も危ぶまるるにより己も亦猜疑の心よりひけめを感じ、甚だしきに至っては再び三度罪を重ねて生涯を獄舎に送るを却て安楽なりと称し居る事すらあるなり。されば心に傷きたる者の行ひは慎まざるべからず。とは云へ人間には過失はまぬがれざらん。如何なる聖人君子と云はるる人にも無しとは云ひ難し。されば此誤ちに対して如何にせば心の汚点を浄むる方法なきかとの考慮を廻らすの要らん。

×

非ログインユーザーとして返信する