未知日記霊話集 第八百七十八回 光明論 上巻 巻の三  未知日記 第六巻 光明論  テツシン貴尊講義 教主寛大講義

未知日記 第六巻 光明論      
上巻 光明論 巻の三     
          
                  教主寛大 講述
                  
                      第80番


 汝等は自然に遠ざかり行くは恰も小児が父母の手を離れて戸外に遊ぶに等し。是あるに依て宗教者は神仏の威厳に依て滅後の脅威を説きて生前中の我儘を封ぜんと計り居れるなり。されど現代の汝等にはいささか肉体科学の教へによって、宗教者の説ける祖風の説には耳をかすもの稀なり。さればこそ人心は年経るごとに自然を離れて不自然なる社会風習に馴れ行きて汝等の世界は今や混乱の巷と化したり。哀れなることなりと嘆ずるの他なし。すべて人は欲望を逞しくするに依て、或は羨み或は嫉み或は妬む。其が意の如くならざるに至って嫉妬心となり、執着心をよび起して遂には争闘を醸し、偽はり欺き果は終生ぬぐひ去るを得ざる罪悪を重ぬるに至る。是に反し自然に自然に順応してその徳に浴するもの、斯る憂苦の患もなく、棄執着の至難も容易に行はれてすべての不安はぬぐふが如く消滅せん。汝等は幼にしては父母を頼みとし、長じては人をたよれど意の如くならねば人は頼むに足らずとなせど、何者かを頼らずば淋苦を感じて叶はぬ時の神だのみとの信仰を余儀なくせられつつあるなり。さればこそここに偶像を祀り飾りて崇拝するの余儀なき至る。斯る結果に誘はれ行くも不自然に歩む結果なり。偶像を目標として心の満足を得んするあさはかなる了見は不憫なるものかな。汝等は形あるものならでは何事もなし難しと思ふ行為を不憫と憐れむなり。偶像を拝せずとも礼拝堂を求めずとも神の幕屋を作らずとも、大自然の徳は汝等一切のすべてを監督しあるにあらざるか。さればこそ汝等は餓えずして生存し居るにてはあらざるか。されど空しく喰ひ、空しく生き空しく死するは自然に反す。唯喰ひては眠る蚕すら錦を残し行くに人たるもの空虚に終ることは許さるべきにあらず。
 大凡世界中の人類悉くが自然と同化することを悟らば目標としての偶像神社仏閣等の必要もなからん。然れどもその時代は遙かに遠ければ、斯るものの備へも亦必要となるならん。我等が教へを聴くものにも大自然の真髄を理解の後に於て、偶像を拝するとも何等毫も差支なし。何となれば大衆の集りは偶像によっていささかながらも気光素の働きを生ずるによって無意義とならざればなり。そは兎に角一大事、自然に従ふ道をふみ迷ふこと勿れ。汝等の信仰は何物か対象となるべきを求めずしては淋しさを覚えて行ずる能はずして怠慢となり、果は信仰に入る能はずして破るなり。汝等神を人間の進化したるものとの観念を脳裡より取りさることを得ざるも一つの原因ならん。汝等は事に処して無益の信仰のみ多くして其なすべきを考へざるは何故ぞ。是全く自然を知らざるに依る。自然に従はば明なる方策は湧き出でて無益の信仰あることなし。汝等まこと正しき自然に帰らんとならば今日迄の習慣を一切を一掃、埒(らち)あけさせよ。然らずば容易に信仰は得られざるなり。正しき自然に入らんとなすには先づ人間と云ふ者の本体を考察せざるべからず。禽獣虫魚と同様の動物なるか。或は特殊性を有する動物として研究を進むべきかなどの考へを進むべきかなどの考へを進めて、更に何故に人間は生れ来りしか。然して人間の行くべき道、或は人間の任務等を究むれば生死と云ふ宗教者の因果論無常観は自づと理解することを得るなり。汝等は現世に生をうけざりし過去は如何なる経路をたどりて母胎に宿り来りしかを明瞭に知り居るか。決して知り得るものはなかるべし。

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