覚者慈音328

光明論 上巻 巻の一
                その13
  
                 セイキヨウ貴尊 講述


 人間は生老病死の悩みあるに依って金銭を必要とす。然るに其度を超ゆるに依て貪欲(どんよく)の心を生じ、ある上にも望む故に果てはその金に縛られて生命迄も失ふ如き罪を犯すに至るは、是非も無き事ながら愚も亦甚だし。「元日や何は無くても親二人」の境涯に達しなば楽しかるべきに、「元日や昨日の鬼は礼に来る」の境涯は好ましからず。酒色に溺れて世を乱し融和を欠くは汝等が世界の悪癖なるにも不拘、此悪癖をなす勿れと我子を誡めながら、親は密かに子に隠れて行ひ居るは何と浅間敷限りならずや。現在の宗教家は自ら五戒を破り居て、衆生に五戒を保てよと説き居るを聞く。是を守る者の少なきは当然なるべし。不届き極まることどもかな。斯ることにて人心を誘導することを得ん!
国は益々乱れ三千年の歴史は覆へさるるも敢へて奇とするに足らざるべし。話は横道に入りたり。もとにかへさん。
 さて形を有する光明の数々多き中に最も大切なるは心意魂魄なるべし。心意魂魄はもとより霊光より現出したれば霊光に帰せしむるを得るは理論の余地なし。然れども肉体は母の胎内より出でて母に帰らぬ如く、心意魂魄も霊光に帰るを得ざるもの多し。されば是を帰らすには如何にすべきや。汝等我家を出入りするにも戸を開閉せざれば自由に出入りするを得ざるべし。其のみならず小さき 部室々々にすら襖障子の隔あり。食物を腹中に入るるにも食器箸手指の世話あるにあらざれば口に運べず。口に入りても歯舌の世話なくんば内に到達せざるなり。然るに霊光に帰するには忽ちにして行ひ得らるるなり。そは相対ならずして所謂絶対なるによりてなり。仏教にも仏凡一体の境地と云へるは此理を云ひたるなるべし。一体なるによりて常に霊光に帰するを得るなり。我等が今迄述べをきたる自在論より感応論に至る迄を参照せば此理は明白に知らるべきなり。家貧しくとも日々三度の食事も事欠ぬもあるかと思へば、又豊富にして病の為に食物を摂取するを得ずして、珍味佳肴を目前に見ながら如何ともなす能はざるあり。汝等の世界には斯る教への資料は限りなくあるに、是に依て修養せば神の道は自づと理解さるべきに、汝等は特殊の方法の学問にてもある如くに考へて手近にある資料を放棄して顧ざるは誤りなり。食するも滅し、食せざるも死す。食すると食せざるは襖障子を開閉するに等し。霊光に帰らんと計らずとも帰るは当然なれども、肉体を有する間に霊光の在所を見学し置かざれば、そは我家なりと云ふことを知らずして他家ならんかと迷ひて、滅後は殊更迷ひを重ぬる故なり。母の胎内より出でし肉体は母体に帰らぬ如く、魂魄も霊光に帰するを知らざれば悪魔の虜となる危険あり。汝は汝の親なる霊に従はざれば滅後は殊更迷ふは必然なり。霊光に帰すとは汝の魂魄を養成せし親に帰らぱ、親は神の分身なるに依て汝を迷はすことなし。
 我、教主の教へはここにあらんと信ずるなり。然れば肉体を有する間に早く修業せざるべからず。霊光に帰するはむつかしきにあらず。霊光ありと信ずる力を強くせば既に帰するを得たるなり。言葉は唯信仰の燭加はるごとに、霊光の度も従って勝りて光は強くなり、肉体に迄変調を感ずるに至らん。斯くならば衣食住の悩みはもとより生老病死苦の憂はぬぐひ去らるるなり。生老病死の苦は死後にあらずやと云ふことは、汝等も平常口にして死んで仕舞へば其迄と称へ居るにてはあらずや。形を有する間に早くのがるれば其だれ苦は少なくならん。一日早ければ一日苦を減ずると悟りなば信仰の燭を増すべし。時間空間を有する間こそ大切なるべし。燭は短かくなりていよいよ光、暗ければ如何に心に淋しさを感ずるならんか。斯る時一陣の風吹かんとも計り難し。明日をも知れぬ生命を吹く風に任せ置くは智慧なし。たとへ嵐の来るとも消ゆることなきは霊光の掩(おお)ひなり。我、今身に変調即ち変りたる験(ためし)を感ずと云ひたれば、汝等は誤解することを慮(おもんぱか)っていささか語りをくべし。



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