未知日記霊話集  第六百三十七回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1319
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 173
更に八七六流界に到る迄
慈音、再童の座につく       
             セイキョウ貴 尊 講述
 

 仮に九流界上中下部の人ともならば、世人の世界に智者学者として尊とまれ居る釈迦キリスト、その他の学者等の如きは、殆ど全人悉くその学識を有し居るにて、八七流界に至っては小児と雖も斯くの如き、知徳兼備のもの数限りなく存在なし居るを我等は知る。かくも上界は世人の世界とすべてに於て相違ありと知らば可ならん。六流界ともならば八七流界の比にあらず。その知徳の進歩が余りに大なるが故、是を世人に語るにあたっては何を以てして知らしむべきかに、我等は苦しむ底の人類なりと知らば可ならん。世人の世界より六流界の人を見るならば神以上の神として崇拝するならん。されど彼等は神にはあらず。唯智慧の進化なしたる人類にすぎざるなり。されば六流界迄到達するにあらざれば、真の人となりたりとは云ひ難し。人智向上して頂点に達しなば、即ち六流界にて終ると思ふも可ならん。
 例へば六流界の小児が全界悉くの小児と、其日其日を嬉々として遊び居ると聞かさるれば、世人は如何に考ふるや。其すら認識する事難かるべし。例へば汝の世界を例として語らんに、朝にめざめたる日本人が、アメリカの小児と手をつなぎて遊戯なすと聞かさるれば、是を如何なる方法にてなし得るかとの考へを、学理より推測して判明する能力を世人は有せざるべし。然るに事実この界の小児はかくの如きことを当然として、あやしまず又不審するもの一人としてあらざるなり。一事が万事かくの如く進化なしたる世界なるが故に、是を世人に知らしむるの難きことを諒とせよ。智識進めばかかることは敢て不審するには及ばざるなり。距離を考へずば是等の事は頷かるる筈なり。学理進みて距離をせばむれば、かくの如き業は至難にはあらざるなり。世人は日本とアメリカが表裏の隔を考ふるが故に、斯ることのなし得べからざるを考ふれど、距離を縮小して接近せしむれば、手と手をつなぐは何等不審するには足らざるなり。
 例へば鏡の前に汝は立ちて鏡に手をさしのぶれば、汝の手と鏡の手と接近する如く距離なくんば、かかる事のなし得らるるは当然なるべし。唯汝等の考へにては鏡に映りしは彼にあらず。彼まさに是汝なりとのみ考ふるが故に思慮は浅し。世人は己の智慧の及ばざる事を棚に上げて、何事も表面のみ知りて深き処に迄研究を進めざるが故に、智慧は行き詰りとなりて働らかざるなり。もし世人にして不思議なる事あらばあくまで追究して、その理を究めんことを我等は切に望むものなり。世人は一つの魔法を行ふものを見て、唯感心して其にて終る。他人がなしてなし得る魔法ならば、其理を智慧によって知るならば、我にも行ひ得る事を考へざるが故に、不思議として取り扱はれ居るなり。世人の世界は唯物本位なるが故に、機械器具に重点ををき、すべてを機械器具に依て証明せんとなすため、二重三重の労苦と経費を要するため、複雑化して却ってその真理を究むる事を得ざるなり。是を智慧によってその理を究め、有意義なる事ならば、その後機械を考案して広く用ゆれば、其にて宜しく、無意義と思ふ事ならば理を究めて、是を捨てなば無駄なる労苦ははぶかるる道理あらん。八七流界の人類はすべての事柄を究め尽して、益々その度を加へ居るによって、人類の進化は顕著となり居るなり。六流界に至らば既に人類のすべては研究なし尽して、最早其以上の必要を感ぜざるに至り居るなり。故に人間としての本分は全く完成なしたるなり。是天の使命をなし遂げたる人類なりと知らば可なり。

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