未知日記霊話集  第六百三十六回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1318
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 172
更に八七六流界に到る迄
慈音、再童の座につく       
                セイキョウ貴尊講義講                


 汝等、仏教者が信ずる釈迦の言葉に汝等、「我は良医の如し。病を知りて薬を説く。服すると服せざるとは医の咎にあらず」と語りたるにてはあらざるか。仏教信者は釈迦と云ふ偉大な人格者に対してすら服するもあり、服せざるもあることを釈迦は余儀なしとして、斯かる言葉を残したるにてはあらざるか。釈迦にして斯くの如し。まして慈音に於てをやと我等は思ふが如何。世人の心はかくの如き浅はかなる智慧より具はりあらざるなり。世人の口にし居る大名も乞食もおなじ桜花と云ふ句あり。この句の意味をよく考へ見よ。釈迦が語る言葉も乞食が語る言葉も、理あらば是を正しとして用い、たとひ釈迦の言葉にもせよ、理なければ正しからざるべし。理あらば乞食の言葉も正しとして信ずる底の智慧ならでは、世人の修養修行は全からざるべし。即ち大名の桜も乞食の桜も桜と云ふに変はりなからん。されど世人は大名の桜を尊び、乞食の桜を厭ふ底の修行なるが故に人智は進まず。よって今後誰の言葉にもあれ、正しければ信ずべし。たとひ人格高き人なりとて理なきことは信ずるの要もなからん」と

 九流界以上の人間は全人悉くみな一体なるが故に、一人誤ちを犯せば万人悉くみな其責を負ふ。故に誰も罪を犯すものあらざるなり。世人の世界は是に反し我罪は我その責を負へば其にてすむとの観念なるが故に、個人主義となりて罪を犯すこと多し。我等が世人に語りし唯我独尊に対して、世人は曲解なし居る人少なからずあらん。我、尊ければ他人も亦尊しとの考へを深くせば、我等の説を正しく認識することを得るなり。我尊ければ他人も亦尊し。その尊さは我のみにあらず。全人悉く尊しとの考へを起さば、我罪は他に及ぼす関係をも考慮に入れざるべからず。然るを世人は唯我独尊と聞かされて、己のみ尊しとして他を軽んずるが故に、ここに他を虐ぐる如き行為を敢てして、恐れず憚らぬ如きは実に嘆かはしき事ならずや。我尊とければ彼も亦尊し。彼尊とければ我も亦尊しの道理より、すべて対して尊む心を一様に持つならば、全人悉くみな平和に生存することを得ることに着眼せば、世の中の進歩発達はなし得らるること火を見るよりも明らかならん。さればこそ上界の人類は罪悪を犯すものあらざるなり。我罪を犯さば全人に及ぶとの心を失はざるによって、誤ちを犯すもの一人としてあらざるなり。全人の罪は我の罪となるとの道理も是によって知らるるならん。所謂自他一体なるが故に、自らは他に、他は自に帰する関係を明らかに知らしめんが為に、イエスは十字架にかかりたるなり。世人はこの理を知らず。唯我等の罪をイエスが一人責を負ひたりと感じて、彼に信仰を厚ぅし居れど、イエスの考へと世人の考へとには斯くも隔たりあるなり。即ち一人の罪悪が万人の罪悪となり、万人の罪悪が一人の罪に帰すとの理を解するならば、小さしと思ふことが広くならば、際限なく拡がることに考慮を廻らさざるべからず。例へば一人の伝染病患者が現はるれば千人万人の多きに至らん。すべての道理はここに存す。所謂小石投水の其如し。一個の石を水に投ずれば波紋は全部に及ぶ。この事柄より上界の人々はすべて罪を犯し過失を犯すもの絶えてあらざるなり。我斯く語る時世人は云ふならん。然らば八流界の隠形者が、何故ぬけがけの功名をなさんと計りしかと云ふ例に、対して質問するならん。是は事実にあらず。上界の様を世人に知らしめんが為の方便の例話にして、仮に斯るものを作りて語りたる迄にて、事実に於て斯る愚をなす者一人としてあらざる事をここに附言しをく。

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