未知日記霊話集  第六百三十二回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1313
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 167
更に八七六流界に到る迄
七流界と六流界の人類について 
                 セイキョウ貴尊 講述

 されば心界の人は前途に望をかけて、一路突進なし居るが故に退く事を知らず。唯前途へ前途へと望をかけて勇往邁進するが故に、一方的となりてややもすればつまづき倒るることあるなり。前に語りし心界の人が隠形の術を工夫して、意界に忍び入りたると同様の事柄が、凡てに於て行はれある故なり。所謂一歩にても早く先んぜんことを競ふが故に、倒るる事もしばしばあるなり。即ち心界の人の欠点はここにある事に留意せざるべからず。我、斯く語らば世人は思ふならん。心界の人ともならば既に肉体を離れて、魂に身をまかせ居る筈なるに不拘、心のみ前途にむけて歩むならば、魂は背後にありて導きをなさざるにてはあらざるかとの質問なるべし。然り。然あるなり。心界の人は魂を背後に置きて、心のみ思ひを馳せ居るが故に、ややもすれば間違ひを生ずるなり。この理は前書に於て既に説き尽しあるが故に、ここに再記するの必要なけれど、是等に関して此界の人類生活の大要を語らずば、世人には解し難からん。故に前書と聊か重複することは余儀なし。是を諒とせられんことを。
 さて心界の人の生活を見るに、この界の人類は嬉々としての生活なるが故に、恰も興奮せる人類の如く感ぜらるるなり。是を世人の日常に取りて語らんに恰も、世人は喜びの宴会を催し居ると考へなば、ほぼ察せられるならん。喜びの余り酒に酔ひて騒ぎまわると同様の姿なりと、思はば合点することは得べし。さりながら世人の浮かれまわる如く、落花狼藉の振舞をなす如きことを想像すること勿れ。心界の人は嬉々としてすべてを悦び、何事をなすにも喜びより喜びへ移して、生活なし居ると思はば可なり。喜悦も度を過せば、疲労を覚え倦怠を感ずる事もあるならん。ものには程度ある故なり。心界の生活振りはすべて此種の姿にて、世を営み居るが故に一方的となり、為に他の界より密かに侵入し来り、其界の秘密等を或は欠陥を探り得て、是を密かに犯さんと企む世界もあるが故に、ややもすれば虚を突かれて、害を受くることも少なからずあるなり。されど九流界の如き無智のものあらざるが故に、忽ち是を発見して直ちに防禦を施すが故に、世を混乱せしむる事はあらざるなり。

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