未知日記霊話集  第六百二十八回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1309
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 163
更に八七六流界に到る迄
八、九流界の科学について 
                 セイキョウ貴尊 講述
 

 所謂心を様々に変化せしむるものは智慧なるべし。されば智慧とは何ぞと深く追究し見よ。又智慧を生ぜしむる源は何ぞと其より其へと追究して研究する時は、是に対して何かつきとめて一定のものを探り得る能力は世人に具備ありや。
 すべては知らずとの言葉にて終らん。知らざるものを追究して何の益があると思ひ諦らむれば、其にて行き詰りとなりて終る。行き詰りとならば進歩発達の道は開かれざるべし。世人の智慧の程度は斯くも浅し。行き詰れば最早知らじと云ふ逃げ言葉を以て、其にて終らしめんとなすが故に、進歩は得られざるなり。又道は開けざるなり。此道を開拓して前途へ前途へと導くものはあれど、指導者なくんば世人の智慧にては、進歩発達は得られざるべし。智慧は何処迄も暢せば延びる勢力を有す。その勢力を与ふるものは、魂を措いて他にはあらざるべし。その魂を拡大せしむるものは指導者ならん。指導者は何処にある ! 汝は汝の心すら握りしむる事を得ざるにてはあらざるか。斯る低劣なる人類に置かれありて、其にて人となりて何になる事ぞと諦むるが如き愚を敢てして、其にて世を終るならば、真に嘆かはしき事にてはあらざるかに思ひを馳せよ。汲めども汲めども尽きざるは智慧の泉なり。智慧の泉(みづ)を心に与へて是を養成なし、然してその心にて何か磨くものはあらざるかとは考へざるや。
 斯く語らば世人は云ふならん。智慧によって磨くは心なり。故に智慧は心を磨くものなりと。然り。其に相違なし。されど世人の言葉の意味と我の語る言葉の意味には相違あるなり。世人は心を魂と思ひ居るによって、此処に我等との言葉の相違はあるなり。何となれば魂あるによって心は働く。又魂あるによって智慧もはたらくが故に、世人の考ふる魂とは、心を其と思ひ誤るなり。心ははたらきにして魂にあらず。智慧は心をはたらかする動力にして是又魂にあらざるなり。よって是等区別を明らめしめんが為に、我等前書より此書に至る迄、彼是と説明をなしたるにて、魂も心なりと思ふも、そは差支なけれど、世人の考への如くなる心を魂と考ふれば、其処に大なる誤ちを生ず。さればこそ霊魂不滅の原理を解する事を得ざるなり。心ははたらきにして智慧も動力なり。されば肉体消滅すれば智慧も心もはたらきを静止す。故に是は滅して終るは火を賭るよりも明白ならん。されど智慧と心をはたらかせ居る源なる魂は、更に他に転ぜしむれば又はたらきをなさしむる源なるが故に、是は尽きるところあらず。故に不滅と云ふは、その源に相当する魂を指したるなりと思はば、従って霊魂不滅の理は察せらるる道理あらん。霊魂は恰も地球の其如し。種子を蒔けば、芽を出さしめ、実を結ばしむ。芽を出し実を結びたるもの、枯るるとも、大地は変ぜざるべし。其と同様なりと思はば可ならん。

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