未知日記霊話集  第六百二十二回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1303
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 157
更に八七六流界に到る迄
                 セイキョウ貴尊 講述

 我等の語る心を先にと云ふは、所謂心を主とし肉体を従として歩めよと云ふなり。然るに世人は心を先にせよと云はば、心の存在する処は頭なりと考へて、心を頭の前頭部に或は後頭部にとの考へをなすによって心は乱れ、却て何事をも考ふることあたはざる結果となる。斯る事をなせよと云ふにあらず。心は常に平なるべし。世人の思ふ如く心を前頭部とか後頭部とか云ふ如きは、其は心の動揺にて穏かならず。故に乱れがちとなるなり。世人は常に甚だしき悩みある毎に、其に対しての言葉を聞けば胸をいためるとか、頭を混乱させるとか、或は彼の人は腹の小さき人なりとか称し居るにてはあらざるか。斯ることは心を表面化なしたるにあらず。徒らに心の動揺をなし居るにすぎざるなり。されば心を主とし肉体を従として心に重点をおき、肉体を是に従はしめ居らば斯るなやみはあらざるべし。
 されば心に重点をおきて事に処するならば、肉体は問題とはならざる道理あらん。我等常に語り居る如く、神の存在の有無は兎に角、汝等の心に神を作りては如何と語り居るは是なり。心を主として肉体を是に従はしめよと云ふことは、所謂この例に匹敵す。肉体を忘れて心のみはたらかせ見よ。然る時は我等の語る言葉の意味は明瞭とならん。汝等先づ肉体を忘れて心のみに意を用いては如何 !  肉体の有無は兎に角、あるものはあり、なきものはなしとの程度に迄、肉体を離れてその心のみに意を用い居らば何になるやを先づ考へ見よ。肉体を忘れたりとてあるものは有り、なきものはなしとの考へにて修行せば、神の方向に心をむけしとて、同じ結果は現出するとは考へざるや。汝の肉体は汝のものと思ふが故に、はなるる事は難し。此理を深く考慮し見ば、我等の教へし事の意味は明確となる道理あらん。たとひ肉体を忘れたりとて有るものはありて汝の心に従ふ。汝の心をはなれて肉体は何処へも去るものにあらず。世人の智慧は一方に偏るが故に迷ふなり。此事柄より考ふる時は、心は独立して他に行くところを知らずとの思ひを誘発し、其処に何等かの求むるものを得んとして尋ね迷ふならん。
 世人の譬喩に親兄弟を忘るるも道理、彼は我身すら忘るるなりと云ふ言葉あらん。我身を忘るる底迄心に重点を置かば、従って真の肉体の在所は判明するなり。肉体に執着するが故に肉体を知らざるなり。肉体を持ちながら肉体を知らざる人を、我身を忘るると云ふなり。所謂我心を第三者として、我持てる肉体を観望し見よ。然る時は我肉体の何なるかを、明確に悟る事を得るなり。所謂燈台下暗しの譬喩にて、肉体を酷使なし居るが故に、却て肉体を過労に導く結果となるなり。この意味は非常に難かしくして、世人には聊か解し難からん。心に重点をおきて肉体を見る時の思ひと、是を反対の方向にむけて空の神を見るとの思ひを、相互比較して考ふる時は、肉体の有無或は神の有無は明らかとなるなり。この程度迄進めずば真の人道をさとる事は難し。神と云ふ言葉を用いたれど今語り居る神と云ふは、即ち魂を指したるにて真の神をさしたるにあらずと知るべし。
 何故神と云ふ言葉に変へたるかと云ふに、汝の有する魂を正しき心より見る時は、神の如く思はるる故なり。世人の語り居る潜在意識と云ふ言葉は、即ち魂にしてその魂こそ、神の如く感ぜらるるによってなり。口にこそ肉体を忘れてと云ふ言葉は易けれど、事実に於て是を行ふことは智慧の程度進むにあらざれば、なし得らるるものにあらず。

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