未知日記霊話集  第六百十九回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1300
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 154
更に八七六流界に到る迄
                 セイキョウ貴尊 講述
 

 我、世人の世界を身界と仮称したるも是等の事柄より、次第に身心界に上らしめんが為の思ひより、語りたるが故にその心して聴くべし。今後は世人の世界を身界と仮称すべし。よって諒せよ。身界は肉体本位なるが故に、斯くは名づけたるなり。されば現代人は科学に囚はれて、魂などの論説を排斥し霊魂不滅など語るものを、嘲笑ふ愚人は多し。たまたま是等に関して研究なし居る人もあれど、其は九牛の一毛にもすぎざるならん。然して斯る事を研究する学者に対してすら、彼は変態性なりなど称して、耳をかす人すらなきに至りたるは愚も亦甚だし。是等すべて幼稚なる科学に囚はれて、すべてを肉体本位として考へ居る結果、宗教者に於ても霊魂不滅の事柄に対しては、余りに深く悟り居るもの絶えてなきに至りたり。幼稚なる科学の力は、却て進化をさまたぐる結果となりつつある事に対して、未だ覚醒(めざ)むる者なきは遺憾の極みなり。さればこそ次第次第に正しき宗教は劣へ、肉体本位の邪宗邪教は益々はびこりて、世間を混乱に導き居るなり。是を我等より見る時は、先づ霊魂の不滅は兎に角、又神の有無は兎に角、斯る事は別として学者たるもの考古学を研究し、或は進化論を研究するならば、その両者を相互に対照して考ふる時、考古学は過去に属し、進化論は未来に属す関係とならん。肉体本位の文化ならば、たとひその範囲は如何あらんとも限度を有するが故に、その解決は至って易し。又肉体本位の研究ならば、生あるものは死すの一言にて、すべては解決なすならん。所謂生者必滅会者常離の諦めにて、至極簡単に人生は解決せらるるにてはあらざるか。世人は人類を最高のものとして得々たるが故に、進化論に於ても人類以上のものを、研究せんとはなさざるなり。所謂自慢は智慧の行きどまりとなり居るが故なり。たかぶる心は行きづまりとなる。行きづまりとなりて焉んぞ、進化論の研究をなすことを得んや。霊魂は滅すと考ふるも亦不滅なりと考ふるとも、滅するものならば滅し、不滅なるものならば又不滅ならん。又神の存在を兎や角論ずるともあるものはあり、なきものはなきなり。故に神を知るものはありと答へ、知らざるものはなしと答ふるにすぎざるなり。肉体本位の世界は広きが如く感ぜられるれど、我に云はしむれば至ってせまし。斯る些細なる肉体に囚はれ居りては、如何に学問すともその学問も至ってせまし。故に人智は進まざるなり。斯ることにては身心界に至る事思ひもよらず。斯く語らば世人は云ふならん。人は人にて置れたれば人の分野を守り居らば、其にて使命は果さるると誤解なしたる答へをなすならん。もとより人に生れて人を知らざればそは分にあらず。人を知る故にこそ人をはなれての使命に服するなり。人に生れて人を知らずして如何に労するとも、未来は暗黒なる事は語るの要もなし。人を知るが故にこそ、人の道を修むる事を得るなり。人の道を修めずばその後の使命に従ふ事は、難き事は異論の余地なからん。

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