未知日記霊話集  第六百十八回  帰途案内記  転界の巻 八流界の人類  セイキョウ貴尊講義

覚者慈音1299
未知日記 第十巻 帰途案内記       
巻の三
上界の巻 
NO 153
更に八七六流界に到る迄
                 セイキョウ貴尊 講述
 

 是を見たる彼は驚きて此界には既に験真鏡のそなはり全きかと尋ねたり。(験真鏡とは五大鏡の如く立体鏡を指したるなり)然るに心界の人答へて曰く、然らず。是は験真鏡にあらずして平面記録鏡(両者仮名)なりと答へたり。是を聞きて心界の人不審して、此鏡は立体鏡にあらずして、平面鏡とは考へ難し。よつて此理を我に教へよと。心意界の人曰く、是は鏡に似て鏡にあらず。心界意界の如く発真受真の二者より感受したるにあらずして、我界には発真を受くる事なく、すべてを受真する事を得る至極簡単なる機械完成して、是に受真せしめたるにすぎず。されど心界意界は下界にして、我等の界は上部にをかれあるが故に、恰も山頂より麓の様を受真したるのみにて、すべては平面となり居るなり。もし是が立体ならば山の麓にありて、山頂の事柄がすべて感受する事を得れども、此機械にては平面なるが故に、なす事を得ざるなり。さればこそ我等の世界より、魂界魄界の事柄を写しとる事は得られざるなり。此理より汝は研究の法を考察し見よ。心意界より魂魄界の事柄を究め尽す事の難き理は、明らかに知らるるならん。さればこそ心界より我等の心意界を、究めんとするも亦難きは、それと同様の理なりと知らば、修養修行の大切なる事は推して知る事を得ん。なさんとすればなし得らるるなり。されどすべてには分度あり。その分度を一々究めて上るにあらざれば、一飛に頂に至らん事難し。故に己の分度をよくわきまへて無法の考へを起さず、徐々に進歩の道を進めよと教へたり。
 ここに至って彼は思ふやぅ、我心界の人に生れて居ながら己の分度を知らず、余りに高きを望みしは過誤にて、其が却て己が身を傷けたる結果となりしを、ここに初めて悟る事を得たりと云ふ。此話を聞きて世人は如何に考ふるや。我等語る事をお伽噺又はいたづらの小説の如く思はば、世人の世界は進歩発達する事は望まれざるべし。世人の世界は身界の位置にをかれあれど、心界の人の如く意界或は心意界迄歩みを進めたればこそ、斯くも智識は得られたるなり。たとひ心界の人は無謀の企てなりとするも、其受けたる智識を心界に持ち帰りて普及せば、心界は益々向上して軈ては意界更に進んで心意界迄、到達する事は難きにはあらざるならん。故に身界の汝等と雖も分に応じ分に従ひて、一歩々々生より生へ進みなば身界も、軈ては心界意界へと進み行く事難きにはあらざるべし。世人の考への如く身界にをかれたるならば、身界の程度にて暮し居らば、其にて使命ははたされたりと称して、徒らに人身に囚はれ居りては、世は全く其度にて終らん。斯る事にては心界意界へ進むる事は思ひもよらざるべし。前途は遠し。人の生命は長からず。人を離れて後も尚生命持続の方法を、工夫せずば人身を受けたる甲斐なからん。世人は夜道を歩むにあたって前途を暗くし、後方を明るくして進む事はなさざるべし。俗言に提灯持ちは先に行けと、云ふにてはあらざるか。前途を明らかにせざるが故に、暗き道を歩むなり。身心界に至らん事を望むべし。身心界に至る事は易し。心界迄は非常に隔りを有すれど身心界は隣国の如しと考へて、先づ身界を身心界に進ませよ。世人の世界は肉体本位なるが故に、肉体を表面化せしめ心を後になし居るは、恰も提燈持ちを後になして夜の道を歩むに異ならず。心の提灯を先にして肉体是に従はば、軈ては身心界に至る事至難にはあらざるべし。

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