覚者慈音21 教主寛大の清めの詞について 光明論上巻  教主寛大講義



教主寛大の詞について


マヤさんおはよう
僕の今朝の目覚めは3時前、永平寺のお坊様でさえまだ起きていない。こりゃまるで行者の生活だ。
早速、大霊界を転記する。その前にこの大霊界という本はすべて教主寛大が講述されていて、400ペ-ジにも及ぶ大内容です。この本の文字は小さいから普通に出版されている書籍に換算したら優に倍から3倍は必要。だから800ペ-ジ以上の本だと思ったらいい。ほら僕が最初に叔母さんから借りててこずった御本だ。

 神の階梯にある高級神霊の言葉を人間を介在せずして直接語られた御本などこの地球界には今迄なかった。聖書にしても仏典にしても神霊の一部分である断片のことばでしかない。それほど尊いものなんだ。今後地球がある限り永遠に残る書だと思えばいい。教主寛大は次のように仰っている。



「汝等衆人は己の池を大切にして他に送らんとなさず。後生大事に水を蓄へ居るによって混濁して、果ては要を弁ぜざるに至らざるなり。池の水は鉄管によって各所に運ばれ居れど、天の恩恵は雨を降らしてその池を旱かさざるべし。
この理をよくよく悟りなば修養修行の大切なることも推して知らるるならん」


僕はまさしく大金鉱が眠っている山の在所をネットでいまみんなに伝えているんだ。そんな自信がある
どうかあなたもそのつもりでこれを読んでください。


さらに今ひとつマヤさんにいいことを教えよう。
この教主寛大と云う人は、他の貴尊方から見ても既に神の領域に入っておられる方なのだ。事実、各貴尊方は教主に対し、「厳戒の辞」の言葉を捧げているし、教主の事を神とも呼んでいる。僕たちが厳戒の辞を称えれば必ず教主寛大には必ず届く。
その教主が自ら一遍の詩を編まれている。その詩を紹介する。その詩を自分の家の神棚の前で読み上げてもいいし、仏壇の前で読み上げてもいい。その詩には大きな力があって迷っているものをすべからく清める力を持っている。
どうか、マヤさんその詩を別途プリントアウトしておくといい。なんといっても本邦初公開、いや、地球世界初公開だからね。貴尊方は日本語で伝えようとすれば思念がおのずと各自がもつ語彙能力に応じて日本語になり、アメリカ人に伝えようとすればそれがまた英語になる。又宇宙の星々に住む其々の人類に伝達しようと思えばその思念がその星々に住む各民族の言語に自然翻訳変換されてゆく。これを無言詞教授と呼ぶそうだ。大昔、イエスが処刑される前日に山に登り、有名なゲツセマネの祈りをしたよね。あの時は三人の弟子たちは皆眠ってしまい、イエスだけが神霊の声を聞いた話が聖書に載っている、あれも無言詞教授の一つだ。仮に福音書を書いた弟子たちの一人でも正確に神霊のことばを聞き取っとっていたなら、それは神霊の言葉を伝達し記録した世界最初の言葉になったろうに、とても残念に思います。
古今より神霊の言葉を一言一句誤りなく直截に書かれた書物はこの未知日記しかない。それほど重要なものなんだ。古来より数多くの聖人が神霊からの詞を聞いて居られたのですが、神霊方もそれを後世に残す意図もなく、話は断片的にしか残されていない。然しこの未知日記の場合は末永く正確に人類に残す意図をもって霊能者である伊東慈音師と衛藤慈声先生の両名を長期間かけて育て上げたのだろうと思います。この未知日記の書のそもそもの発端は慈音師の母親が浮住界を彷徨している時、下界に残された盲目の慈音師を慈しみ憐れんだ母親が当時のミキョウ貴尊(現セイキョウ貴尊)に懇願して慈音師をどうかお救い下さるようお願いしたことに始まっています。母の思いが慈音師だけでなく、地球の人々をも救う端緒になっていったんだと思うよ。
一方天界に於いてはセイキョウ貴尊はテツシン貴尊に力をお貸し下さるよう頼み、更にテツシン貴尊は教主寛大に出座を願い出て、現在の未知日記一連が完成された訳だ。



教主寛大の清めの詞を「光明論上巻より転記する」


形を有する光明には位置あり


位置ある光明には限度あり


位置なき光明には形を有せず


形なければ限度なし


神の光明は位置もなく形もなく又限度なし、故に無極無辺なり


大凡宇宙全体悉く神の光明に浴せざるもの一としてあらじ


此光明に浴して汝等は下界に生をうけたり


即ち汝等は一本の燈燭の如く光明をうけたるなり


肉体は燭にして魂魄は点火の如し


燭尽きざれば点火は消滅せざるが如く、肉体あらん限り魂魄は去らざるべし


魂魄の点火は消失すると雖も滅したるにあらず。その位置を異にするのみ


点火さるれば光を放たん。実質にあらずして無明の光明と変じあるにすぎず


燭の形状には大小長短太細ある如く、人体にも同様の恵みあるなり。滅後一本の線香に変ずるも薫郁はたかし


香も亦光明なり。光を香に変へたるのみ一本の花、一椀の飯(はん)、一滴の水悉く光明ならざるはなし


汝等は自らの教訓のために神を祭祀(まつる)如く思惟するに依って心の汚れは清浄されざるなり


燈燭細小なりと雖も明光赫々たるあり。燭太く大なりとも輝き鈍



きあり人間にもこの理あらん。線香にも良否あり。人にも善悪あ



りその他種々様々の事柄を燈燭薫香に託して考慮せよ 



然して一本の燭に勝れる任務を行ひ居るか。又一本の線香に勝る善行をつみあるか


或は悪臭を放つ不正の線香となり居らざるかを


朝夕香華燈燭を捧ぐる時必ず反省せよ      


形を有する光明は表面を照らすと雖も裏面に影を止む


形なき霊光は普く百方を照らして全からずと云ふことなし


大小高低曲直はもとより善悪正邪、ものの美醜を嫌はず、


そのままに現はして偽る事なし


形を有する光は掩ひかくすを得れども霊光はかくさるる憂なし


日月には触あり、霊光には斯かる事なし


日月には雲あり、霊光にはなし


形ある光は滅すれども終始なき霊光は滅せず


形ある光にはなやみあり。霊光にはなやむことなし


形を有する光は破壊するを得れども霊光は破壊するを得ず


形ある光は食を与へずば滅す。霊光には食の要なし


位置を有する光には居を有す。霊光にはその要なし


形ある光はものを焼失せしむれども霊光はかかる危険なし


形ある光は霊光に依って生じたれど霊光を照らす力なし


太陽の光には朝夕昼夜の別ありて時間空間距離を有すれども


霊光にはかかる不便なし


形ある光は速度を有するも霊光にはその要なし


形ある光は善悪正邪の区を明らかにすれども左右することを得ず


霊光には善悪正邪に応ずるを以て是を左右する力あり


故に霊光はその区を明らむるなし


形の光は胞子の集合にしてその胞子は霊光より作らる


故に霊光ははたらきにして始めなく終はりなき智慧の根源なり


形を有する光は数多けれどもすべては霊光に帰す


故に霊光の根源にかへらば衣食住の心配なく生老病死苦のうれひなし


早合点なすものは真を究むる道を知らず。表面の信仰に終れば早呑込み


早合点者は潜在せる魂をよびをこすことをせざるなり


ぼくもこれをプリントアウトし、仏壇のまえで読み上げ祖先の霊を清めている。一見平凡に見ゆるこの詞の大事さを、後にセイキョウ貴尊が50頁に渉って講釈をされている。するといままで見えていなかったもの、考えに及ばないことがこの詞に数多く含蓄されていることがわかってくる。
とても大事な清めの詞です。くどいようですが、人間の言葉ではなく、神の詞なのです。幾度も幾度もお読み下さい。機会があったら光明論上巻の最初の50頁を読まれたがいい。いや間違った。

機会があったらではなく、何としても生きているうちに幾度も幾度も読んでみることだ。それがあなた自身がこの世に生を享けた天命、職責を知ることになる。僕も今回、葬儀の際、母の棺の前で一人で幾度も読み上げてきた。勿論生前の母も僕らと一緒になってそれを読んだきた。僕の妻は今迄この詞を幾百回も唱え、その言葉をいまでは諳んじている程だ。車の中でも一人で唱えている。
戒名、そんなものをお坊さんから頂いたとしても、はっきり申し上げて無功徳です。でも、これは人間界の決まり事ゆえ、敢えて否定はいたしませんが、戒名を付けられた本人も、はてこれは誰の名前と思うに決まっています。戒名を称えられることより、生前の顔を真剣に思い浮かべた方がよっぽど相手方にその思念は通じます。でも僕は生前母親とよく相談し母の戒名を作った。当然僕自身と妻の戒名も作ってあるよ。


まず、この書を記録された方の簡単な概略、生い立ちを記しておきます。昭和28年12月に伊東慈音という傑出した無名の大霊能者が他界されました。この方は盲目で30代から40代の間は東洋音楽の奏者でした。かって大隈重信公や岩崎男爵が外人を招待したときに、この盲目の老師が秘曲を演奏したそうです。
それ以後、彼は社会から遠ざかり、いろいろな霊的修行を行いました。ついに行の最終目的を達した彼は、霊耳を得て、貴尊方の講義を聴取し、自らは行じて、その片手間にこの大部の書を記録し、後輩者の為に残したのがこの未知日記一連なのです。
記された期間は戦前、戦中、戦後を挟むだいたい10年間に行われました。
どんなことが書かれているかというと、人間の死後、それぞれの魂はどのような経路を辿り、どういった世界に移され、そこでどんな修行をさせられるのかを、こと細かく詳述されております。魂によって種々様々、千差万別の経路があることも書かれて
います。又この大宇宙には、数限りない人類が生息していて、地球人種は魂の進歩発達の程度から云えば、十位の低きに位するそうです。よってこの世界を十流界と規定しています。
私等の世界より一段階上の九流界なるところは、私たちの科学力が想像が及ぶ限りに、最高潮に発達した段階を九流界の世界と規定しています。まあ、今から五百年から千年以上後の世界を云われるのではないかと思います。宗教の説く極楽世界がまさしくそれだね。その世界には、悪人はおらず、それを召し捕る警察もなく、またそれを裁く裁判官なく、収容する刑務所もなし。また貨幣もなく、当然戦争などもあり得るはずのない世界なんですね。
まあ、こんな世界が縷々詳細に書かれております。
あわせて八.七.六.五.四.三.二.一、流界のことなども詳しく述べられています。もうこれは私たちのいう神仏の世界ですね。今までいかなる書も、これほどのことを記してはきませんでした。いや実際知らなかったというべきか。その世界の誰もが知らないことをこの書は教えてくれます。
この講師方は真の神を知り、神の声を聞き、神に抱擁され、神の命をもって働らかれている神の使い、天使なのです。何億兆光年あるやもしれぬ、この広大な大宇宙を、端から端まで移動するのに一秒の何分の一の時間でもって往復され、この地球のような惑星をも瞬時に創造もし、破壊もできる力を賦与されておる、まるで神のような方々です。でも講師方は神ではなく、あくまで人間の進化した者だといわれております。そのような力を賦与されていなければ神の下僕としての勤めを果たすことができないからだと仰っておられます。
前口上が長くなって申し訳ない。でもこのことを事前にお話ししておかなければ、なんのことだか、貴女にはわからないと思います。私だってこの筆舌の及ばぬ内容を、貧しい言語で説明するのに四苦八苦しているわけなのですから。今日はこの辺りできりあげるか。ちょつと眠たくなってきた。ではまた。

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