覚者慈音20 お 経について

お経について

我が家の葬儀は滞りなく終わった。これで肩の荷も下りた。少しの雑事は残るがゆっくりやろうと思う。これで子として果たす責務もかろうじて終えることができた。後は子供達にこのバトンを委ねようと思う。
ここ福井県は浄土真宗がもっとも盛んで、どこも彼処も仏説阿弥陀経か正信偈のお経が葬儀会場で流れる。真宗にあらずんば正宗にあらずと坊さんは勿論の事、一般市民の大部までもそう思っているみたいだ。
この未知日記の世界を知らない時、祖母の死後、ご多分に漏れず私も仏前に向かい般若心経と仏説阿弥陀経の二つのお経を何年も唱え、それらを諳んじていた。ある日この仏説阿弥陀経の現代和訳を読んで愕然としたことがある。そこに書かれている仏教の極楽世界観なるものの貧困さ、その空疎さに戸惑ったのである。お経には金銀瑠璃瑪瑙などの財宝に囲まれ、蓮の花が咲き乱れる浄土の情景が続く。そして西方には何々の仏達、東方にはどこどこの仏達とその仏達の名前がこれまた延々と続く。鎌倉、江戸時代ならばともかく、当時の大衆の極楽世界の渇望を満たすにはそれで充分だったろうが、はたして現代人はそんな物質的な極楽世界を夢見て満足するのだろうか。死んでもなお金銭の奴となり、身のまわりに金銀瑠璃などの装飾品をおくことを希求するのか。答えは断じて否である。
仮にお坊様がお経ではなく、その現代語訳なるものを仏前で唱えたとしたら、本人は勿論のこと、檀家の信者さんも有り難さはおそらくは半減するに違いない。中身のないお経に意味不明の抑揚をつけて尚一層中身を不明にすることによって、より効果を引き出そうとしたのだろうが現代では逆効果だ。
お経というものは本来自分のもっている霊性を顕現させるための道具のはずだ。亡魂の追善供養というのはお坊様のいうひとつの方便、建前だ。本当はお坊様自身の持つ守護霊の誘導策のはずなんだが・・・・・・



今日お経を聞いていてそのような感慨をもった次第。

×

非ログインユーザーとして返信する