覚者慈音19     とうとう明日は母の葬儀

母の葬儀その当日
我が家の忠犬さくらもいつもと違う日常に当惑しているみたいだ。ひっきりなしに訪れる親戚の人達、また近所の方の当座見舞い、病院の看護士の人達の身辺整理、そして私の兄弟などの出入りなどがあって、彼女は彼女なりにいつもと違う家庭内の雰囲気を機敏に察知しているみたいだ。「なんかいつもと違うぞ。おかしいな」と思っているにちがいない。
式場に母を安置してある部屋で息子は寝ずの当番をしながら通夜に訪れた人の名前を網羅し、葬儀の為の焼香順位の作成におわれていた。私は息子と入れ替わるために早朝4時の起床。車には5センチほどの雪が積もっている。桜も満開になってきたのに不思議な天気だ。


いまから38年前にも祖母の死の時はもっとショツクは大きかった。私は一週間は全くといってほどご飯類は受け付けず、空腹感などは全くなく、死後の世界のことばかり考えていた。それを契機にいろんな宗教書を読みあさり、いろんな宗派をも尋ね、またある会にも本気で入会したこともあった。大同小異どれもこれもよく似たものだった。そんなときに出会ったのがこの未知日記の書だ。私の父の妹が家に来て、私に一冊の本を貸してくれた。これを読んでみろという。本の題名は「大霊界」当時難しくて五〇ページほど読んでみたが、途中で放擲した。
確か一ヶ月か二ヶ月ほどしてもう一度その叔母を訪ねてもう一度借りて読んでみた。
なんとか最後まで読み終えたがちんぷんかんぷんの状態だったことを覚えている。東京の松尾さんに連絡をとり、未知日記一連を早速注文し取り寄せた。


今ではこの書、「大霊界」だけでも一七回も読んだ。いまでも難しいことに少しも変わりはない。でもこれだけ読んでも本当に飽きがこない。ある箇所を読むと胸からこみあげるものがあって、その有り難さに涙がこぼれる程だ。本当に有り難いことだ。
このような本はいままでなかった。
お経にしても聖書にしても釈迦。イエスの死後五〇〇年もたって宗教会議が開かれ、多くの孫弟子達が編纂したものだ。当然いろんな人の主観が入り交じり、釈迦、イエスの言葉もきっと変遷していったにちがいない。彼らが今、仮に蘇生復活したならば、「私はそのようなことは言わなかったがなあ」と言うにちがいない。なぜなら弟子達は祖師を誇大に吹聴し、偶像化てしまう風潮があるからからだ。それに反し、この未知日記の書はすべて天使方の息づかいまで聞こえるほどの肉声で語られている。一言一句、てにをはまでも正確に転写するのが私の務めだ。
この続きはまた後日。さて今日は葬儀本番、ますます忙しくなるぞ。では

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