覚者慈音296

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO243
大霊界入門記    後編                 
第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ                                                    その12
                       教主寛大講述


 
 是には学者も智者も異論なからん。迷信妄信なりとて学者智者より嘲り嗤はるるとも、その迷信妄信によって己救はるるならば、嘲り嗤ふものこそ、却って愚なる者となることもあらん。汝等然とは思はざるや。愚者も人なり。学者も人なり。何ぞ賢愚を論ずるの要あらん。迷信によって我身傷くならば其は誤ちにして愚なるものにあらず。人にはすべて過失多し。誤つと云ふは誰にもあるものにて賢愚を論ずるの要なかるべし。善悪邪正と云ふも是等は智慧によって定まるものにあらず。すべては変化自然に帰せしむることを得るなり。故に不変化自然に順じて其によって変化自然を応用するならば、善悪邪正の区は明らめられて自由の道を歩むことの可能なるは云ふ迄もなし。
 求めよ、与へられんと云ふ言葉も変化自然なり。求めずとも与へられ居るものは不変化自然より他になからん。この理をよくよくきはめ見よ。然る時は求めずとも与へられ居ることに気づくならん。欣情よ。汝、慈声と互に思ひやり同志となりて早く覚りなり得んことを計るべし。汝は慈声を忘れ居るによって彼にたいして思ひやりの心あらはれざるなり。汝の肉体にとりては慈声は不変化自然にして、欣情は変化自然なることに着目せよ。筆の序でなれば教へをくべし。
 我、若し多くの人を集めて説教なし居る時その中の一人に対して注意を与へなば、諸子はその一人のみの教へなるによって我等には関係なしとの思ひより他に心を転ずるならん。諸子の修養修業はかくの如きこと往々見受けらるるなり。筆の序でなれば欣情に語りをくと云ふは、取りもなほさず筆の序なればその人のみに語るにあらず。即ちその一人を通じて悉くの人に通ぜしめんとの思ひやりが含まれあることに心して、是は彼女にさとしたるにあらず、我等に対しての教へなりとて深く其事にのみ耳を籍して、己が心の迷ひを晴さんことに努力せよ。一人に対して一法を教ゆる時諸子はそのものに着眼して、己も共に学ばんとするは凡ての習性なるべし。心を他に転ずることなかれ。

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