覚者慈音295  大霊界入門記  一名奮起門 そのニ  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO242
大霊界入門記    後編                 
第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ                                                    その11
                       教主寛大講述


 慈音が日々まんまん様と拝み居りしは思ひやりの言葉にして他に意味あるにあらず。故に相互が思ひやりと云ふ情心の交はりて融和なし居りたるによって彼は傷かざりしのみか、忽ち天界の安楽に引き上げられて安心立命を永久に続け居るなり。故に彼はこだま会の会員達に思ひやりの心と教へしなり。此意味を深く味ひて己が心に貯へて是を育てなば真の拝みとなること疑ひなし。されど思ひやりの心は神を通じての思ひやりにあらざれば、正しき法とはならざることを忘るるなかれ。眼にみえず耳に聞えざるが故に神は尊し。宗教者は他力とか自力とか称し居れど其は仏を知らしむる方便にすぎず。自他の区別を有せざる仏ならでは広大無辺の力そなはるものにあらず。汝等仏教者の言葉に仏は法を売ると云ふあらん。是は仏なるが故に法を与へ得さしむるの意味なるべし。されば法を求めて我ものにとせば自力他力の争ひをなすの要もなからん。イエスによって神と手をつなげよと教へ居るも帰するところは一なり。最後の目的は那辺にあるやを考慮し見よ。仏教キリスト教すべては教へを異にすれど、帰するところは眼に見えざるものの徳を教へ居るに他ならず。何れも空なるものを目指して其によって救はれんとする方便にすぎざるならん。要は空を我ものにせよと云へる結論となるのみ。別段むづかしきことにはあらざるならん。つまり空の範囲は深くして果しなく実の範囲は限度あるによって狭し。されば空の広大無辺なるところにて自由を得よとの教へにすぎざるなり。斯く語らばすべては有相にして、斯ることに時間を空費なし居りては詮なしと云ふ人もあらん。然り、然あるやも計られざるなり。一度思ひをあやまてば甲斐なき結果を生むやも計られず。故に信仰の念思ひやりの心なくしては目的は叶ひ難し。空なることを実に帰せしめて其によって、人心の向上発達を得せしめんと計ることの至難なるは、斯る事柄より察せらるるならん。
 日本の川柳とか云へる句に「講釈師見て来たやうな嘘を吐き」と云ふあり。是を更に「釈迦イエス見て来たやうな嘘を吐き」と見なすも可ならん。兎角空なることは虚説の如く思はるるも是非もなし。又「親の意見と牛のしりかひははづれるやうに見えてはづれじ」と云へる意味の諺もあり。疑ふと信ずるとには空も虚となり、実も虚となること多し。ここに修養修業の力の相違によって、空も実となり虚も亦実に化せしむることを得るなり。是等すべては融和の有無に帰す。泰岳の語りし思ひやりの心はくうにして実なり。虚にあらざる道理あらん。真に味ふべき教へなりと知るべし。有難し、勿体なし、この心を起すもすべては思いやりなり。この思ひやりに対して神と云ふ空の不変化自然のそなはりを解する力現はるるならば有難し。勿体なしの現はれは涙となりて現出す。されば神を通じての思ひやりの心に化する、修養修業をなさざるべからず。神を通じての思ひやりは万般にわたってあますところなく通達す。されど神を通ぜざる思ひやりは籠の内に入れられたる鳥の如し。翼ありても何等の甲斐もなからん。唯籠の中にてさわぐ他なかるべし。この理をよくよくさとりて修養の度を高からしめんことに努力せば可ならん。故に神とは不変化自然にして、法とは変化自然なりと思ひて修養するもよし。口角泡を飛ばして神を論ずる要もなからん。斯る閑らば不変化自然に順応してその中より変化自然の法を案出し居らば、其にて智識の度は益々加はること疑ふ余地もあらざるべし。

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