覚者慈音297   未知日記  大霊界入門記 後編  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO244
大霊界入門記    後編                 
第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ                                                    その13
                       教主寛大講述


 衆人は肉体と心の融和を計れど心と魂の融和を計る方法を知らざるならん。肉体は有形にして心は無形なり。されば心の無形を支配する者のなかりせば、心の安定の得られざることは明らかならん。然るに肉体と心が互に交はることはなし居れど、心を育て居る何者かに対しては無関心なるべし。故に人智は進まざるなり。心と魂の融和を計り居らば、智識は増大し身心の交はりも亦従って厚くなることは、是又明らかに察せられるならん。心明らかならざるは病者なり。病者の心を治癒せしむるものは魂を措いて他になかるべし。心の医者は魂なり。肉体には薬剤あり。心にも亦薬剤なかるべからず。汝等諸子は馬鹿に附くる薬なしと称し居れど、馬鹿につくる薬は魂と云ふ医者があるによって、治癒することは得るなり。同じ薬剤を用いても一開業医と経験深き医者との区別によって、服薬の効果に相違あることはよく見受けらるるところなり。是等は何に基因するか。即ち信ずると信ぜざるとの相違なりと諸子は云ふならん。信じて用ゆると、信ぜずして用ゆるとの相違は、同じ薬に於ても缺くるところあるは、信不信の無形のはたらきが実剤に迄及ぼす点より考ふれば、無形の力が如何に大切なるかを学せざるべからず。一例をあぐれば砂糖を少量紙に包みて是は毒薬なり。飲めば忽ち死すと云はれて口中に入るる時は、心のはたらき弱き者は忽ち死することもあらん。斯る例は往々見受けらるるところなり。実剤を通じて空の効果を計る方法なるによって、空の効能ききめはかくも強くなるなり。是即ち空薬なり。諸子の世界に霊媒者とか加持祈祷者とか催眠術者とか云へる類は、空薬を用いて心を治療し、其によって肉体の苦も清除せんと計り居れど、心の悩みは除去されたりとて、肉体の患ひは去りたるにあらず。有形には有形のものを与へ、無形には無形のものを与へずば治癒は望まれざるなり。ここに於て魂と云ふ大切なる又大なるはたらきをなすものの力なかりせば、心の病苦はぬぐひ去るるものにあらざることは察せらるるならん。されば人を信ぜしむるは言葉なるべし。言葉の巧拙によっては効果の点にも相違あらん。言葉は心に与ふる薬剤なり。光気素の言葉は害を与へ、気光素の言葉は病ひを治癒す。衆人の多くは光気素の言葉を用い居るが故に争闘は断間なし。気光素の言葉を以て互に交はらば、融和はなし遂げられて争ふものにあらず。日本人は我国は言霊の国なりと称して、言葉を大切に取り扱ひ居るはこの理あるによってなり。俗歌に、「物は云ひやぅで角がたつ」と云ふは、即ち光気素と気光素の相違を現はしたるならん。心すなほなる人は無言詞が常に素直にして、気光素のはたらきをなし居る人なり。口に気光素の言葉を出し居るとも、無言詞が光気素ならば、その気光素の言葉が決して通ずるものにあらず。却って反対の立場におかるることは往々見受けらるるところなり。無言詞は常に気光素のそなはりを有せざれば、すなほなる人とは云ひ難し。

×

非ログインユーザーとして返信する