覚者慈音291


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO238
大霊界入門記    後編                 
第七、フク 反復門 (仮称) 一名奮起門 (仮称) とも云ふ                                                    その7
                       教主寛大講述


 諸子の言葉に (日本支那) 「使ひてへらぬ金ならばたった一両」と云へる意味の教へあらん。「喰ひてへらぬ米ならばたった一升」と云ふ教へもあるなり。是等も皆フクの意味に合ふ。施せば施す程自然に増え行く財宝にあらざれば宝とは云ひ難し。神より授けられし宝は施すとも減小する愁ひなし。汲めども尽きぬ泉の如し。汝等諸子は金儲けには手段を択ばずなど称して、親子兄弟なりとも金のためには他人なりとか称へて、不善の利益を得んことを企み居る徒輩は多し。金銭は他人のはじまりなど思ひ居る輩こそ、福の意味を反対に転落の方向に向ひ居ると承知せよ。人と交はりを厚ぅする融和の方法として金品財宝も必要ならん。其が却って他人とならば融和にあらずして破壊なり。融和せんがための金品が破壊となるものならば、この上もなき無用のものにてありて要なし。金品財宝は融和的に用いずば何等の価値もなし。諸子は多くの倉を建てて己の住居を広大に作り居らば多くの人は集り来るならん。その集り来るものは救はれんがための集りに他ならず。然るに諸子は其等の者を救はんとせず徒に倉を見せて誇りとなし居りては、怨み妬みの心より己が身に傷くこと多からん。然る時は財宝を貯へて却って苦労を多くす。斯ることは喋々論ずるの必要もなけれどフクの門はあやまてば、否逆に用ゆれば斯る結果となる故に其は死より出でて死にかへるの意味とも見て差支なからん。長者は生より生を求め、分限者は死より死を求むる結果とは是等を云ふなり。
 当年九月二九日こだま会に於て泰岳が語りし千手観音の教へを、諸子は如何に聞きたるや。千の手ありてその悉くを働かせ世を救ふにあらざれば、千手観音の力は空し。是は唯怪物に他ならずと語りしにてはあらざるか。千手観音が全部の手を働かすことによって、多くのなやめる者は救はるるなり。是を働かせずして空しくなし居らば怪物の其の如し。長者と分限者の相違は是によっても明らかに悟ることを得たるならん。所謂長者は働かせる観音にして分限者は怪物の観音に等し。己、他よりめぐまれし時は彼に対し頭を下げ、めぐまれざる時は彼に唾して去る。世の中は先づ斯くの如し。
 神の世界は広大無辺なるによって行くも帰るもフクの門は自由なり。汝等諸子の世界の宗教は自由を阻害す。故に道は狭し未知日記に於てミキョウ、テッシンが語りし如く、来るものは救ふべし。去るものは追ふべからずと語り居りしも是なり。来るも去るもすべてを救はんと云ふ心さへ有し居らば其にて可ならん。来るものを救ひ去るものを遠ざけるは
フクの門の意に合はざるなり。来るも去るもすべてを救ふ心こそ、即ちフクの門の意に通ふなり。一切衆生を救はんが為のフクの門なれば来る去るの区別あらんや。

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