覚者慈音273

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の五                         NO220
大霊界入門記    後編                 
第五、ギョウ 実地門 (仮称) 一名就業門 (仮称) とも云ふ                                                   その6
                       教主寛大講述


 ギョウの門に入りたるもの既に平和より平和へと、平和の一路を辿りて、世を建設なし居るが故に些かにても障碍となるべきもの其悉くが他に転ぜしめられて有益のものに変りつつあることは、智慧の程度高きが故なり。然して彼等は方向をあやまたずして毒を薬に変へつつ、益々その範囲を広くなし居るによってなり。汝等諸子は薬を毒として用い居る間は安かるべきことあらんや。毒を変じて薬となす。是即ち光気素を変じて気光素となすの関係と考へよ。光気素は毒なり。気光素は薬なり。用法をあやまてば斯ることにも順逆の相違となる。迷信と思ふも用法の如何によっては,正信となることの実例は数々あるなり。是等も変化自然の一種なり。ギョウの門に入りたる仏達はすべてを知り尽して、不可能と云ふこと一としてあらざるが故に、汝等諸子の不可能と思ふこともすべてを可能として、なしてならずと云ふことを知らず。なせば必ずなし遂ぐることを得るなり。よって彼等は不可能と云ふことを知らず。仮に全宇宙が尺度によって末端より末端へと計ることを得るならば、その距離を一秒の何分の一かに往復することも彼等にはなすことを得るなり。斯くも自由自在なる地点にをかれてすら、尚も其より其へと修養修業を重ね居るに対して、汝等諸子は余りにあそび暮しの多きことに心づかばここに何か悔悟する考へは生ぜざるや。彼等も人なり我も人なり。されば彼等もなし得るならば、我にもならじと云ふことの思ひを貯へて、前途に望をはせよ。ギョウの門の人のみがなし得るとのみ思ひて、徒に彼等を見守るのみにては、珍味を前にをきて喰はざるに等し。箸をとりて早く食しては如何。
 さてギョウの門に移されたるものとは諸子の世界にて云ふならば、各大学を終りて己の希望の大学の学徳を修せんとなしたる様を想像するもよし。又一つの大学を卒業して其々専門の科に移ると見るも可ならん。とにかく己が望むところに進むと云ふは己より求めて進むにあらず。又神より是を習得せよと命ぜられて進むにもあらず。神我一体の姿そのままにて一致結合して、唯その道に順じ居るに他ならず。是を気光素の交はりと云ふ。光気素とは己より求めてその道に入るか、はた又命ぜられて其道に学ぶ如きを光気素の修業と云ふなり。この理を先づ考へ見よ。

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