未知日記霊話集  第百八十八回 大霊界 心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  その13  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                        NO142 
心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  その13                                                   教主寛大 講述


 感じを変へると云ふは無言詞を有言詞になさんとする、術なるべし。未知を既知になさんとせば感じによって組織するにあらざれば得難からん。未知を解決してはじめて既知となる如く、無言詞を解決して得たるものは有言詞なれば、即ち未知は既知となりてはじめて認識することを得るなり。されば未知を既知になさんがための方法とは、考へと云ふ力の程度の如何に依る。思考力を延長なさしむるには動の力なかりせば得難し。その動の力を与へ呉るるものは即ち霊なり。ここに思ひを廻らさば魂を霊に和せしむるとは、考への力を措いては他の方法もなかるべし。心を魂にまかせ居りては魂の認識したる事柄のみ心に感ずれど、魂の知らざることは霊によって求めるにあらざれば目的は達し難し。深く考へよと云ふことは心を魂に、魂を霊にと云ふ意味なりとは既に汝等諸子も理解することを得たらん。
 叩けよ、扉は開らかれん。求めよ、与へられんの教へは比喩なり。其を枝葉に於て求めんとなすが故に、其は心魂にのみ任せ居るにすぎず。汝等諸子は心より魂の門を叩かず、又心より魂に求めざるが故に得られざるなり。其を尚一層深くして魂より霊の門を叩き、魂より霊に求むれば一層深きものを考へらるるはずなり。枝葉にのみ囚はれて迷ひ居らば叩くも開らかず、求むるも得られざるべし。是等は大自然の法則を全く認知なし居らざるがゆえなり。
 汝等諸子は言葉なき言葉を見聞する力を得れば、全宇宙の姿が全宇宙の有様は悉く汝等諸子の掌中のものとならん。汝等衆人はよく云ふ、斯ることは神より他に知るものなからんと。即ち神より他に知るものなきことを感受する底に化せられて、はじめて霊の威徳に浴することを得るなり。霊は神を知ると未知日記に於て語りしは、この理を語り教へたるなり。すべてを霊にまかせ居らば迷ふことはあらざるなり。霊を知らざるが故に思ひ惑ひて却ってわづらひを多くす。故に尊きものは霊なるべし。己が心魂を霊にまかせ居らば、迷ひ惑はさるることのなき道理をこのことによって悟りたるならん。不滅の境涯とは心魂を霊にまかすにあらざれば得難し。されば修養修業は心魂を霊にまかすることの他には他になかるべし。霊にまかせて初めて魂は不滅となる。霊化せずば魂は迷ふなり。霊は魂を導きて神にかへる。故に魂は不滅となるなり。不滅の魂に育てあぐるにあらざれば、天より授けられたる使命を全うしたりとは云ひ難し。魂を稔らせるとはとりもなおさず、魂を霊に抱かせよと云ふことなり。稔らざる魂は霊に同化せず。霊に同化する迄修養するにあらざれば、完全の稔りとは云ひがたし。魂の稔りたることを知らんとならば無言詞を聞く力見る力共に備はらずば、全き稔りを得たりとは云ひ難し。無言詞界とは即ち魂の修養道場なりと知らば可ならん。魂熟して無言詞界に移さるれば、既に稔りの日に近し。稔りて後は自由なり。行かんとせば心のままに行くことを得、帰らんとすれば心のままに帰る。行くも帰るも自在なり。この境地に達してはじめて大自然の自由は得られたるなり。この所に来る迄には艱難苦痛を伴ふ。既にみがき上げられたれば最早摩擦の必要はあらざるなり。摩擦なければ艱難苦痛は伴ふものにあらず。我、斯ることを語らば机上の空論なりと一笑に附するならん。我等は決して汝等諸子に空論を語りて何の益かあらん。唯紙面を汚すのみの教へならば何等の価値もなし。我等は諸子の世界の如く時間空間を有する所を早く離れしめて、天界の大自然に浴さしめんがための導きなれば、決して隙つぶしの空論を語り居るにあらず。

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