未知日記霊話集  第百八十七回  心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  その1Ⅰ  教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の三                        NO141 
心に伝ふる無言詞と魂に伝ふ無言詞の相違  その12                                                   教主寛大 講述


 近代の宗教者が誤ちたる考へより世を害し居ることあまりに多し。精神修養をなさんとして却って傷くこと多し。是等は根本を誤つによってなり。宗教者が欲望をすてよと教へ居るに対し、其を曲解して財宝をすてて却って己自らのみならばよけれど、家族に迄も困惑を抱かしめる如き愚をなし居る人も少なからずあるなり。欲望を捨てよとは金銀財宝を云ふにあらず。貪欲の心を捨てよと云ふ意味にして、其が枝葉にのみ走り居らば斯る錯誤を生ずるなり。宗教者の言は欲望を捨ててすべてを放棄せよ。然らずば一大災難が来らんなど恐怖心を起させて、ために何も知らざる家族に迄害を及ぼす如きは憎むべきことなり。金銀財宝を己が心、己が魂の宝と考ふることなかれと云ふ意味なり。金銀財宝は玩具の如し。是を珍重するが故に己が心魂の大事よりも尚大切なりと曲解せば、物質の奴隷となる。蓄積したる財産を保護せんがために倉を建て番人をおき、然して日夜盗人の現はれはせぬかと戦々恐々たる如き行為は、修養修業の妨げなること云ふ迄もなからん。巨万の財産を貯へて倉に蔵し居りては、財産は何等の価値もなかるべし。是を有意義に働かせて世の中を安からしめてこそ、宝としての徳は現はるるなり。余事に亘りたり。とにかく心に伝ふる無言詞、魂に伝ふる無言詞、さては霊に伝ふる無言詞の区別を、明らかに認識なし居らずば、霊眼は明らかとはならざるなり。又霊耳も聞え難し。是等の道理を知らんとせば未知日記の八大門によりて推理せば解することを得るならん。全宇宙は暫時も休むことなく動じ居るが故に音響は絶えやらず。響きあるが故に無言詞となりて伝はる。無言詞是音響なり。汝等諸子の心が空に化せらるるとも其奥には魂と云ふものあり。その魂が空に化せらるるとも霊と云ふ作用ある以上音響あることは、大自然の道理より考察せば、その意味は明らかに感受なし得る筈なり。故に霊の響きこそ無言詞なるべし。我の慈音に伝へ居る意味は無言詞によって慈音に伝はり、其が次第に有言詞となりて姿を現はし居ることは既に屡々語り居る如くなれば、諸子も最早知り居るならん。然るにこの事を聞きても尚納得するあたはず、何かその中に形あるものの存在なし居る如く思はれて、其処に割り切れぬものを覚ゆるならん。その割り切れぬものこそ無言詞なり。其無言詞が割り切るるものとならば最早形となりて有言詞となる。是を考ふると云ふなり。

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