未知日記霊話集  第百五十六回  信仰の力 疑は信仰の門 その1  教主寛大講義 教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界    巻の三                         NO108
      
   疑ひは信仰の門            その1
                                                                            教主寛大 講述


 すべて人の心は何事に不拘、疑ひ晴れて初めて信を得らるるものにて、初めより信ぜられるものにあらず。故に疑ふ心のあるは最早信仰の門に入らんとするによってなり。信疑の心なきは、その事柄に対して無関係なるによって別段信疑の必要を感ぜざるが故に、其れには耳を籍さざるならん。信ぜんとするが故に疑ひを抱くなり。故に疑ひの心は信仰を得んとする希望の門なるべし。信仰者は疑ひに疑ひに疑ひて其疑ひが晴れて、初めて信仰者となる。されば信ぜんとなすものは、疑ひの心を一つつ々々晴し行くにあらざれば、真実の信仰者とはならざるなり。疑ひては信じ信じては疑ひ、是を繰り返しつつ歩むによって、ここに初めて信疑の迷ひを晴らして絶対信仰、或は絶対疑ひに化せらるると承知せば可ならん。先に語りたる二人の信仰者の如く足弱き人の信仰は、絶対信なりしため引き上げられ、一方の信仰者は絶対疑ひなりしため転落し、足弱き人は疑はざる信仰を強くしたため引き上げられたるならん。此理より考ふる時疑はざる信仰を得んと計るには、何かそこに一種の確定したるものを把握するにあらざれば、その望は達し難からん。絶対信仰と相対信仰の区別はここにあるなり。疑ひをさしはさむ信仰と雖も、最後に至って絶対信仰者より救はれて、天界に導かれたりというふにてはあらざるか。足弱はき人の如く初めより絶対信仰に入る人は数あるものにあらず。是等は類稀なる信仰者なり。されど普通一般の信仰者は、体力弱き人の信仰の如く疑ひをさしはさみつつ、迷ひの信仰を続ける居るによって、確定信仰は得られず、不確定より不確定へと、迷ふが故に望は達し難く、されど信ぜんとする心あるによって最後は救はれたるなり。有限信仰と無限信仰との相違はここにあるなり。疑ひの心を有するは有限信仰にして、疑はざる信仰は無限信仰となる。汝等衆人の信仰は有限信仰なるが故に危し。されど信仰を得んとはかる心を捨てざれば、最後は救はるるなり。有限信仰は虚信にして無限信仰は空信なり。汝等衆人喰はずば死すと云ふ信仰なるが故に、虚信になること多し。喰はずば死す。喰へば死せざるかと追究せられなば、ここに迷ひを生ずるならん。喰ふとも喰はずとも死するものは死す。されど食不食に不拘死せざるものはあるならん。此理をよくよく考へよ。然らずば絶対信仰は得難し。体力弱き人の信仰は虚信なりしため転落し、足弱の人は空信なりしため上昇したりとせば、虚信は疑ひを伴ふ。絶対信仰を得んとせば虚(そら)だのみにては望は達し難し。されど虚だのみの門を通過して、空のところに足を進むるにあらざれば、是又成就は得られざることも推して知らるるならん。故に疑ひは信仰に入るの門と見るも差支なし。
 信を得んがための疑ひは既に信ぜんがための疑ひにして、所謂信に属する迷ひの一種なれば帰するところは信に属す。疑ひに疑ひを重ねてその疑ひ全く晴れて初めて信に化せられることもあらん。故に初心者は先輩者の指導を受けて是にすべてを任せ、然して信を厚うすれば成就は速からん。是即ち他力信仰と云ふなり。己に求めて己より道を得んとするは自力の信仰なるべし。自力の信仰は危し。されど自力の信仰と雖も確定したるものを認識把握して、其によって迷はずば結果に於て正しきを得るなり。兎に角信ずると云ふことの一大事は是等によっても明らかならん。

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