宇宙からの訪問者 NO27  小説 円海大師が残された書物「喜心録」続き

 円海翁の師は続けて曰く、「汝等は難行苦行と思うによって行は進まざるなり。泰学の如く、喜び勇んで行ずるならば、難行苦行も消滅して苦痛を感ずるものにあらず。石上に端座して、頭腹一体の法を求むるは是安楽の法にして、苦患の法にあらず。楽しみを得んが為の苦しみは是、苦しみにあらず。汝等よくよく心せよ」としばしば仰せられ、その都度我等は痛棒を味はされたり。
 円海翁曰く、「法を伝えられて行はずば何等の価値もなし。法力を錬磨する者は全く命がけの態度なれど、門外の人より見るときは滑稽に感じられるであろう。斯かることをなして法力を会得したりとて百人、千人悉くがなし得るものにあらねば、実に異様の感にうたるることは察せらるるならん。斯かることをなす隙にて人間としての働きを他に求めてそれに勤しみおるならば、さぞや世の中にもてはやさるる人物となる事もあらんに、山間僻地にありて斯かる行をなすとは、はてさて物好きなるものかなと嘲る人もあらん。我等も斯かる行を廃して他に道を求めんかと思ひしことも幾度かありしなり。しかるに行徳備わり、法力加わるに至りてここに迷夢より醒め、真実の人間の道の余りに広大なるに驚きたり。それは法力、行力熟達したるによってにあらず。心の迷いが悉く清浄され、魂の威徳が現はれきたりしなり」と又円海翁は修行の経過を以上の如く述べられた。
 又ある時、円海翁の先輩であられた泰岳老師との会話も興味深く著述されているから、是も併せて紹介してみょう。その前にこの泰岳という仙人について、君に前もって話しておく必要がある。この泰岳師は円海翁が入門当時、すでに徒弟の中で上位に置かれていて、優れた行者であった。
 幼児の頃からこの泰岳師は一風変わった人で、普通の子供の様に鬼ごっこや瓦蹴りなどの遊びをせずに、一人手を合わせて拝んでばかりいるような人だった。家の者はこの子を坊主にしようと思い、寺に奉公にださせた。で、寺の和尚様がお経を覚えさそうとしたが、これが中々の愚物で般若心経の一句を覚えるのに十日、さらに一句を覚えるのに又十日の日時を要したそうだ。ようやく覚えた時には、既に前に覚えた句はすべて忘れておったということだ。和尚様もこの子の愚鈍さにはほとほと根を上げていたところ、すっかり持て余していたんだ。たまたまそこを巡行の為に通りかかった師の坊の眼にとまり、その子供をお山に連れてゆかれたそうだ。さすが師の坊だけあって、その子を一瞥しただけでその子の非凡さを見抜かれたのだろう。

 彼は大人になっても言葉は幼児言葉を話していたが、彼の持つ法力は師の坊さえ舌をまくほどのものであったそうだ。ほら山頂に登ると濃い霧に覆われているよね。そこで普通の行者が霧開きの法を行うと十メートルから十五メートル位霧が開かれてゆく、でもこの泰岳師が行うと霧は百メートル程開いて、それが中々急に閉じてこないのだ。

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