宇宙からの訪問者 NO26  小説 円海大師が残された書物「喜心録」

 行者だって鞭を当てられれば生身の肉体を持っているんだから痛みは同じ。しかし見込みがあるから、師も又容赦しない。鞭を当てられないということは、行者としての見込みがないと見なされるのだ。早くここを去って還俗の道を選べと云うことなんだよ。それほど行者達の修行は炎熱よりも尚熱いということなんだ。
 彼等の食は一日二食で、それもごく少量でいて粗食。当然動物の肉などは一切食べない。そんな過酷な修行をやっていながら、彼等の肉体は頑健に出来上がってくる。人間の肉体って意外と強いものだね。仮に修行の出来た行者の血で半紙に文字を書いたら、その色はいつまでたっても色褪せることなく鮮血色そのままなんだ。そして行者が最後に行う「即身即仏」の最終行を行っても決して彼等の肉体は腐敗などしない。なぜなら心魂は勿論、肉体の総てが清まっているからだ。
僕は円海翁が後輩の行者の為に記された書物を持っている。それは下界には伝わっておらず、行者間で読まれている本だ。その本の題名は「喜心録」という。円海翁はそれに当て字として「棄身録」、また「帰神録」とも呼んでいた。これは身を棄てて神に帰る喜びの心という意味を込められたんだろう。結構にこれは分厚い内容の本だけど、その二、三を君に紹介してあげよう。但し、原文は行者の言葉で綴られているから、それを日本語に訳して話してみよう。
円海翁曰く、「私は仇敵を求めて十年間放浪して、各地を経巡った。一定の職もなく、無駄な日々を送っていたに過ぎなかった。それから以後、百五十年間、全く夢の如くに過ぎてしまった。考えてみると私は何のために世の中に出て来たのだろうかという、なんだか取り止めのない歳月を重ね、世の中の人との交わりとは全くかけ離れた生活を続けていたにすぎなかった。短いようでも百五十年と云えば、かなりの年月であったに違いない。だが私にはそれが長いとも短いとも感じなかった。世の中の人達は美味美食を求め、贅沢三昧に日々を送っている。私と雖も若い頃は女性を恋したこともあった。深山に分け入って、師の坊より肉体の苦患を味はされ、辛き思いをなしてそれが何になることぞというような棄鉢的な考えを持って、余りに我惨めさを想う時、いっそ下山して還俗しようかと感ずることは屡々であった。生きておる以上、鞭打たれれば痛みを感じ、食せずば空腹を感ずるは当然のことであって、寒気身に迫り、白衣一巻にては凍死するやまも計らず、かかる時は、実に悲しくもあり、又莫迦莫迦しくも覚える事、我も人である、我も人間である。肉体の具備ある以上これは是非なきこと。泰学の如くすべての行に対して喜び勇んで任務に服することは私には到底難しく感じられた」とその書に述べられた。

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