宇宙からの訪問者 NO23  小説 神ほど穏和で温かいものはない

 これも我等の長老から聞いた話だけれど、その二流界の世界に美しい鳥がいて、とても優雅に空を飛翔しているそうだ。長老は天使の方に思わず尋ねた。
「あれは極楽鳥と呼ばれる鳥なのですか」と
すると天使の方が答えた「あれは汝等が世界の蜂が、この世界迄登りつめて進化なし遂げた姿だ。蜂も人類同様、幾億年の時間をかけて進化の階梯を登ってゆく。人類の祖先は何かと云えば、貝から始まったという伝説もあるそうな。それがまこと真実なら、やがて無限の時間をかけて、この蜂も人類として生を享ける日も来るのだ。神の描かれた設計図はすべてのものを引き上げ、進化の道へと誘っている」と仰ったそうだ。
 この二流界の人類は天使にならんとすれば天使の姿に、又太陽にならんとすれば太陽、そのものに変身し、そしてまた樹木にならんとすれば、完璧に樹木になってしまう。所謂、彼等の身体は千変万化することが可能なのだ。この天使方にとっては、時間も、空間も距離もない。なぜなら、彼等の思ったところに瞬時にそこに移動できる力を賦与されているからだ。
 そして天使はこのことに関し、次の様に長老に語ったそうだ。
「このような力がなければ、神様のお役、御用を真に果たすことが出来ないからだ」
雄哉君、仮に君の星の日本にある富士山を削り、その土を琵琶湖に埋めて、そのどちらをも平坦な土地にする国家的プロジェクトが発動されたとしょう。仮に国家目標でそれが実施されたとしても、地球人の科学では百年はおろか、二百年たっても、その工事は遅々として遂行されないだろう。しかしこの二流界の人類は一人で、それも一日でもってその工事を楽々完遂できる力を持っている。それほどの力を持つ天使達なのだ。信じられるかい、雄哉君。僕も長老から聞いたときは、そんな荒唐無稽な話はとても信じられなかったがね。この二流界の人類は自分の身体を千にも万にも変化させることが出来るそうだ。しかしもっと驚いたことには、二流界の世界の一段上にある、一流界の天使の方々は自分自身の身体を千体、万体に分離、複写して、それらの肉体を自由無碍にそれぞれの身体を全宇宙の中で自在に駆使させることが出来るという。いわば一人が千万の働きをさせることが可能なのだ。僅か一段階でこれほどの自由を得られるのだから本当に凄いことだ。この話を聞いた時ばかりは心底僕もたまげたね。ほら、君たちの世界で説かれているあの千手観音のことを思い浮かべてみたらいい。千手観音と呼ぶよりも万手観音と呼ぶのが正しい。一流界の世界、これはもう神の世界の領域、真の神の世界だ。・・・・・・
雄哉君、次の言葉はわれ等の長老が天使の中でも最上階の天使に聞かされた言葉だ。この言葉を幾度も幾度もおのれの心の中で反芻して嚙み締めた方がいい。

「汝等諸子は我等を神の如く考ふるなかれ。汝等諸子と雖もやがてはこの処に移さるるなり。されど未だ神にはあらざるなり。四大後門を終りて後にあらざれば神と共に住ふことは許されざるなりと承知せよ。然してその後は神の子として生活は許さるるやも計られず。我等は神の前に至り又神より遠ざかりつつあれど、神と共に生活することは許されず。さりながらやがては神の子として共に生活する時節到来する事を楽みとして我等は任務に励み居るなり。汝等諸子は神を唯怖しきものと考ふるは誤りなり。我等は神を知る又神の声も聞く。神ほど穏和にしてやさしく慈悲のこもりたるものはあらざるなり。一度手に触るれば忘れ難き愛情が身にしみて、唯言葉なき底の有難味を覚ゆるのみ。怖しと思ふ念は露程もあらざるなり。神は決して怖しきものにあらず。是は確言して憚らざるなり。神を恐るる間は神を知らじと思ひて唯一心に修養修業せよ。然して一度神の手汝等に下らば最早我等の教へを聞くの要もなしと承知せよ。
 神は汝の父なり母なり。汝は父母を恐るることなかるべし。父母は汝を愛撫して決して捨ることあらざるならん。汝もし父母を恐るるならば其は汝の心に何か恐るべき原因を有するによってなるべし。汝の神を恐るるはすべて汝の心の暗き故なり。即ち神の威厳を恐るるが故に、近寄ることを得ざるなり。己の心明るければ神に接して何等臆するところなく、抱かれんことを願ふならん。汝等の世界の宗教者の多くは神を知らず、唯神の威厳を語り居るにすぎざるが故に神を恐るるなり。神の威厳は広大無辺なり。されど神は恐しきものにあらず。されば神の威厳を恐れざる底の修養修業をなさば、其にて神は汝等を抱き給ふこと疑ひなし。コウの門に移されたるものにして己の心に傷き居らざるが故に、神の前に到ることを悦びとして、神より離れんなど云ふが如き念のあるもの一人としてあらざることは、是即ち修養修業の積みたる者ならではその真をきはむること難しと承知せよ。一度神に抱かれたる其味は到底終生忘れらるるものにあらず。汝等諸子若しコウの世界の仏達の前に来らば、其威厳に打たれて頭を上ぐる事も得られざるべし。恰も猛犬が主人の前に頭を下げ居るに等し。盗人は猛犬を恐れて近寄らざる点に比べて考へ見よ。恰も其如し。
泰岳が汝等の世界に在りし時猛獣毒蛇すら頭を垂れて彼に近寄る。然して彼等は泰岳の手を喜び居りしなり。汝等たとえ悪人なりとも神は決して捨て給はざるべし。この理は汝等と雖も察することを得るならん。汝等日々の生活は前途を暗くして世渡りなし居るが故に苦みは益々加はる。されば前途を明らかにして生活なし居らば楽みより楽みの連続となりて、神の前に到ること決して困難にはあらざるなり。汝等諸子は一寸先は暗として生活なし居るは是即ち苦みより苦みへの連続なり。すべて心の持ちかたを楽みに変へよ。所謂心を明らかにして希望をすつることなかれ」と

×

非ログインユーザーとして返信する