覚者慈音  川上村と慈音・・・・・     衛藤慈声著


覚者慈音


川上村と慈音





慈音を指導した人々





母,中木検校





円海大師(鈴鹿の仙人)





泰岳大師





リョジャ.セイキョウ貴尊





教主とテッシン貴尊





序文



慈音とこだま会の発足




  慈音の生地奈良県吉野郡川上村を訪ねてみたいと考えだしたのは未知日記の講義によって人類の出生に関してその知識を持たされた時であった。
地球人種は半人間半動物の姿におかれ,知識の成長度からすれば十流界にて十位の低きに位している。そして実際には一つの流界を三部に区分してある処からすれば地球人種の人間性成長度は三十位の低きにある。
従って出生の法,或いはその生まれでる過程にも全人間性の其れに比べて非常な相違があるのである。
たとえば地球より一つの流界を超えた九流界に於いては既に動物性は消失して唯,上流界に比して智能の未完成の人界である。そして胎児は母胎にあってその肉体組織の形成され行く過程を認識して育ち出生すれば直ちに言葉を発し,何等の不自由はないのである。五歳までに個性を完成すると云われ,又その任務,或いは使命によってはその界に現れる人は自ら肉体を作り,(母胎を経ず)出現する人すらあると未智日記に記されている。
その他についても科学が進歩しているので生活様式も食物も地球人種の比ではない。一例を医学について云えば,予防医学だけで病気は免れているのである。



未智日記には人間完成度の高い二流界の出産についてつぎのような記述がある。



「諸子の世界(地球)は肉体の交わりによって人類を創る。されど二流界に至ってはかかることにて人を創るものにあらず。無機と無機の交わりが有機に化せられて,その有機より更に人類が生存なしおるなり。故に諸子の科学と二流界の科学とでは雲泥の差のあることも頷かるるならん」


又,
「無学の慈音に通じて此書を残しおかば何時の日かは学者の為の資料となりて大なる発見をなす事もあらんと思いてなり。これらの事柄は地球上の人類のうち慈音のみに限らず幾千人かの者に対して教えをなしつつあるによって,後世これらに関する書物が多く現ることとならん。

そしてそれらの集合が一致なしたる時、はじめて全人類がそれによって向上発展の道をなし遂ぐる事、疑いなしと語りおくものなり」
二流界では女体の妊娠はない。そして,人間の成長度に依る方法に差異はあっても大自然の理法は一つであると未智日記は教えるのである。
地球人種の出生についても,其は現代人の一部の人々が考えるように生物学的生理の偶然というような簡単なものではない。其は無知に過ぎぬ。
何故ならば,人の出生たるやその淵源するところは深いからである。夫妻と子との此の三者の波長の共鳴によって受胎、妊娠は行われる。従って、夫妻の発する波長の生因の純正度によって共鳴導入される人種にも相違の生じて居ることは明白である。
人間性の勝ったもの,動物性を多分に持ったもの等々。
従って,淫欲を恣にしても決して子の得られない原因も此処にあるのである。人の心は常に動じて止まないものである。自ら欺くもの単なる肉欲を恣にする夫妻のその場その時の波長の共鳴も亦,常に純正な同一波長のものではあり得ない。従って生まれでる子の性格も千差を生ずるは理の当然である。
受胎時の土地との関係も深いものがあると聞いて,私は自分の此の足で川上村の土を踏み,山々の姿に接したいと考えたのである。
慈音の昇天後五ケ年して昭和三五年十月五日,雨の降る朝奈良に着いた。奈良は慈音が中年の前半を過ごした土地であった。
吉野川の水源地帯,往時,山の村人にとって行者の姿は物珍しくなかった。そして,道で出会ってうっかり無心にその後をついて行くと急に眼前に見上げるばかりの絶壁がたちふさがり,「あれっと」と思う間に行者の姿は消え失せていたとか,時には村の童がその絶壁をするすると引き上げられ,其の子は再び村に姿を見せる事はなかったとか。此の種の話はつきなかったらしい。
行者は病人を治療した礼としてそば粉や小麦粉を受けていったとか。
狼は慈音の幼児の遊び相手であったと聞いた。人里遠い山の奥,八十幾年前の事である。狼でさえ人にいじめられたこともなく,人怖じしないものであったと考えられる。
五条市は慈音の父が材木業で成功した土地であった。父の滅後四郎を襲名した幸吉の慈音が三年間自ら材木業を営んだ土地である。
当時を回顧した慈音は儂は原価計算により問屋口銭を二割と決めて合理的,紳士的信用取引をもくろんだ。然し,「儂が盲目の不具者であることが禍して相手が頭から莫迦にしてかかるので問題にならなんだ」といわれた。
探し当てた古色を帯びた宿屋の女主人は果たして二見の伊東と云っただけで話は通じた。国鉄吉野口で近畿鉄道に乗り換えて,上市駅で下車,此処から先は柏木行きの乗合自動車,武木口から少し山の方に入ったところにある。
そして柏木まで行かぬと旅館がないとの事で一応柏木に行きそこを拠点としてタクシーを利用した。上市駅は吉野川に沿った台地にあった。バスに乗り合わせた婦人は伊東家の山番をしていた今井の娘で逢いたい人の妹であった。
武木の伊東さん,後本家は井光の伊藤さん。
今井屋(切符売り場,宿屋)に泊まる。
この屋敷跡の山手よりの道路を挟み一段低い地形に慈音の学んだ小学校が建っていた。小学校の前の道路を山の方角に緩い傾斜を上がって行くと,間もなく自然石を並べて土止めをした段々があり,それを登り詰めた処に山の一部を切り開いた平地に鎮守の宮と並んで一段高い処に寺があった。是ぞ少年幸吉の信仰の手ほどきをした鷲山和尚の住した寺である。


幸吉少年が孤独に耐え,智慧をもとめて朝に夕に昇り下りした土と石の段々。山の家に一人取り残され,特に母の不在中悲愁の思いを抱いて彼が踏んだであろう段々・・・・・・
大自然は幼児から彼を甘やかす事をしなかったというのであろぅか。「此の少児こそ伊東家の跡取りなり」との不用意な易者の一言は,兄たちが呪う鬼子の如く何故一家の者の憂慮,嫌悪の的とならねばならなかったのか。
斯くして大自然は孤独といふ雑布を肉親者の憎悪軽侮という苦汁に侵して容赦もなく少年の魂を磨きに磨いたと云うのであろうか。母と子の愛情の交流さえ長い間阻まれて居たかに見ゆるのは何故か。
偉大な使命を架せられた少年の人生への門出にあたり,その揺藍の地として択ばれたここ武木の里は山々に囲まれた山の上の小さい台地である。狼さえ人を恐れる事さえ知らない山の上にて苛酷な運命の中に隔離されて慈音を養い育てたものは専ら山の霊気以外のものではなかったと云うのであろうか。
此処から三里の処に大峰山,正面左手よりに高い山が大台ヶ原の霊場が峰続きになっている。
私は正しく行ずる行者にとっては深山,高山,低地,平地の区別はないことを知っていた。距離亦論ずるに足りないのである。
蔦の葉を綴り合わせた衣はとにかくとして,白衣一巻の行者が今現に此の暗闇の中を歩いて声をかけられたとしても私は驚かないであろう。然し,日本の山は浅いと仰せられてチベットに去られたミキョウ貴尊の言葉を想ふと,真の聖者,行者は果たして今幾人,日本の深山に残って居られるのであろうか。
ここに漂う霊気こそは偉大な使命を持つ人魂を誘い寄せたものであろう。その人魂は偶々そこに住む信仰厚い婦人に共鳴してその胎内に宿ったのであろうか。


昭和八年慈音はここの山中の何処かで鈴鹿の仙人,即ち生身のミキョウ貴尊に面会された。その時同伴したのがこの今井氏で,伊東家の山番である。
その時,慈音は貴尊から日本の敗戦による解体,其の後に来る国際的対立,世界的混乱について聞かされたのである。
慈音は其れだけしか私に話してくれなかったが,二人が合った真の目的は慈音をして使命達成を明確化せしめられた事にあったと思う。
又,山番については狩猟好きで,殺生を何とも思って居なかったところから,一日も早く殺生を中止するよう説き諭され,癌による死を示唆されたという。山番の眼には五十歳から六十歳の間,頑健なお方に見えたと慈音に語ったそうである。当時,貴尊は肉体年齢百七十歳前後であられたはずであった。
又,当時既に肉眼を必要としなかった慈音が山番を同伴したのは世人に対する考慮が払われたものと考えられるのである。
宿の主人の話によると,父親は何を感じたか一時猟を止めてはいたが死に際になって又はじめたということであった。此の父親が癌で死んだのは昭和十二年であったとのことである。
然し,彼の今の妻は後妻で彼女の生んだ三人の男子は皆幼少で病死したのであるが,ある時何処からともなく現れた行者はそれを殺生の報いとして身を慎むようにと彼に説き諭したと語った。



翌朝,井光へ向かう。慈音の母の生家大西家も同じ井光の村落にあった。此の里は武木より広い。
伊藤家は神武天皇の道案内をつとめた永比鹿の後裔であるという。
吉野におちついたのは寿永の頃,当時伊藤を名乗っていた左右衛門武久が吉野執行として着任して以来の事。そして地名,井光は永比鹿のなまったものであると云った。
川上村は南北朝時代自天王終焉の地である。そして,生命を全うした皇弟尚尊王は当時ここに在住した伊藤五郎大夫祐国の娘と婚して,その血統は今日に至っている。
慈音の父,四郎は長兄が家を守り,山の上で終始したのとは反対に商才にたけ,財を築き思うがままの生活を営んだのであった。
父は本家にすまないと云って伊東姓に改めたという事だ。
母の死後は全くハメをはずした生活をして,財を散じたと慈音は私に語られた。
つまり慈音の父は伊藤家の家訓を犯したのであろうか。
伊藤家を辞した私は井光神社に詣でた。祭神は永比鹿。日本の高山の何処にも見られる神社の姿,身に沁みる峻厳の氣,そして私の心の想いに浮かぶものは,我等日本人祖先の一大見識であった。
例え現在は其の真意は失われ,霊光を天皇に見立てた天皇中心の自然宗教は今や滅ぼされとは言え,やがて進歩して行く精神科学に伴い,再び脚光を浴び真の姿を現す日は遠くないであろう。信念を養い,念力を養成する方便として,峻厳なる深山の奥処に神社を設けた先祖の智慧は正しく評価されねばならない。
慈音の母がまだ娘であった頃,天誅組が五条の代官を血祭りにあげた後,吉野山を越えた際,途中止宿したのが彼女の生家であった。彼女が甲斐甲斐しくそれらの武士達の世話した姿は天誅組の史実に明らかであると聞かされてきた。貴尊は彼女の現在を天界にありて安楽なりと仰せられた。
私は慈音との或日の会話を憶いだしていた。
「そうか,あなたもか。俺はまた,わし一人の経験かと思っていた」と彼には意外であったらしい。「其れが俗に云う生まれ故郷に縁がないと云うやっさ。気波の相克とは其の事じゃ。」
私にとって,此の地上で一番恋しく懐かしいのは郷里であった。其れにも拘わらず,三日も滞在すると理由もなく苛苛して沈着を失い,眼にも見えない何者かに追い立てられて私は早々に立ち去らねばならなかった。
私の常識では判断のつかないものであった。病的ともいいかねるものであった。
げに,内心疑問としながらも,私はこれまで人前では口に出したことがなかった。わしもあなたと同様だ。川上村程恋しい土地は無いのだが縁はなかったと師は感慨深く云われた。然し,その俗縁うすい故郷程,私の一生に重大な影響を与えたものはないのだった。
幼少の頃,其処で聞き慣れた山の声,波の音,風の叫喚,雀鳥,鴎や鳶の鳴き声,蝉しぐれ等々。四季折々の自然の有音,無音の響き。其の旋律に耳を傾ける事なくしては今日の私はあり得なかったのである。
それらの旋律に共鳴する己の心奥にある何物かを追い求める事を覚えたればこそ,己の智慧の限界を自覚してその限界の壁を打ち破るための努力こそが,長い長い迷いの末に鈴鹿の仙人や慈音に近づく原因ともなったのである。
生まれ故郷の山川草木と海と鳥と虫とが四季折々に奏でた交響楽こそ私の最初の導師,私は自然に導かれた自然児であった。斯うみてくるとき,私にとって生まれ故郷は決して薄い縁ではない。然し又,肉体的気波の相克によって私が郷里から追われたなかったらば今日の私はあり得なかったことも事実である。
少年時の恩師が如何に其処の自然によって養われたのであろう事を私は憶わずにいられなかった。その山の上では音もなく,声もなく天地を充たす霊気が少年の魂に朝夕ささやき止まなかつたのではあるまいか。
小学生の彼が自発的に鷲山和尚に求めた智慧の欲求はその拠ってくる処は深かったのであろう。
「先生が実業に従事されたら大金持ちになった筈でしたってね。」
「フン,そうらしかったようだ」
慈音は他人事のように云った。
「先生がお金を持つたら如何云う風にお使いになったでしょうか」
「そうだなあー」 と一向に気のない返事の後で,「世界中の貧乏人が皆救える程度の金なら持ってみても悪くはなかったかな。」とつけ加えて笑われた。
金銭の力には限度がある,云うにたり無い微細なものである。座興的にしろ無駄口をたたいた私は全く愚かであった。
私は慈音の思い出をメモにしていたが,慈音に「何をするんです。よけいなことはお止しなさい。」ときつく不機嫌に云われた。それもそうだと思って私はメモを破り捨てた。何でも忘れて良いことは聞く端から忘れることにした。それは初歩の私には不必要なものに染まらず,拘らない修行の一端でもあった。



未智日記には
「諸子の言葉に罪を憎みて人を憎まずといふあらん。斯ることを知りながら,罪を憎みて人を憎む事は誰にもなされおれど,罪を憎みて人を憎まざる底の人は幾何ありや。人を愛するが故に罪を憎むなり。修養修行の積みたる人は人を愛するが故に罪をも憎まず,たとえ罪ありとも其の人を憎まずば其の罪は自然に消滅す。正しきものは正しきと思い,不正のものは不正として,是を統括して悉く愛の力によって悪を消滅せしむる力は神のみにあらず。人間にはその具備は与えられおることをよくよく考慮せよ」と記されておる。  


いまや行なりて天界にある在る慈音の慈悲は人の罪を消滅さす力を有しておることを私は知っていた。そして,慈音の足跡を歩み進む私が,慈音の愛する地上の人々のうち一人でも憎む如き事があってはならないのである。又,是は道徳律ではないのである。
人の世の一切の罪咎は赤子が這い出して縁から転げ落ち,思わぬ怪我をすると同様だと貴尊は仰せられた。然し,其の怪我の原因が人の無知によるとは云え,其の結果の責は痛くとも,悲しくとも其の人の負わねばならぬものである。如何に些細の罪咎と雖も其の償いは其の人の償うべきもの。己の上にふりかかる重荷であろう。己に出て,己にかえるは自然の法則である。
慈音は時々冗談めかして私をたしなめられたものである。
「人間の云う善悪と神の善悪は大分違うようぢゃ。其れだからと言って俗に身から出た錆と云う言葉がある。良きにつけ,悪しきにつけ善行も悪行も己に出たものは総て己が責任をとり償わねばならぬのだ。
病気だってそうだろう。死ぬ病気は傍から如何も出来ないだろう。総て其れと同じ事ぢや。償いのために苦しまねばならぬ処に,又仲間うちから彼是とたたかれてはかなはぬぢゃろ。」と慈音は初期の頃,私が小学生でもあるやうにかんでふくめるように教えられたものであった。




    慈音を指導した人々


  母


 「初め彼は幼き頃、母より汝には観音の力そなわりて救われたり。汝は生涯観音を信ぜよと云える母の言葉を深く信じて其れによって今日の結果を得たるなり」と未知日記には記されている。彼女は長谷の観音を信仰してその生涯を終えた。
「あまり可愛がって貰った記憶は無いが,やはり母は懐かしい。」と慈音老師は何彼につき語った。
「尤も俺は並外れて暴れん坊で悪戯は激しくお仕置きばかり受けていた。」
生まれ落ちると同時に里子に出されて,家族との親しみ薄い上に易者の不用意な一言によって親兄弟を当惑させた。彼は感受性も並外れていたため,彼自身の内心の不満のはけ口が手に負えない悪戯となったのであろう。ある時,例によって蔵の中に閉じこめられたとき,二階に上り箪笥の中の衣服の間に砂糖を振りまいて衣服の砂糖漬けを作った。その他色々と悪戯が続き,種種の損害を作ってはお仕置きを二重,三重にもしたと告白された。又,どんなお仕置きも彼には利目がなかったらしい。
老師は生まれたとき両眼を閉じたままだった。母はこれを己の責任として嘆き悲しんだ。一定の日数を経て,母は赤子を同伴して大阪の名医をめざし吉野山を下ろうとした其の門出に当たり,赤子は両眼を見開いたのであった。
母はこれを信仰の賜として,そのまま赤子を連れて長谷の観音様にお参詣に向かったという。
彼女が大阪滞在中に急死去れた時,老師の傍らに立たれた幻影(幽念俗に幽霊)は永く老師の心底に焼きついたのである。表面の厳しさとは反対に我が子を思う心は誠に厚かったのである。


彼の母は「空中楼閣にて迷いおりしをミキョウに救われ,慈音が仏教信者なれば盲人の身で空間に迷はさるるは不憫なれば救い給えとの母の願望をいれてミキョウは救いの手を慈音にさしのべしに始まりて今日に至りしなり」と
母の愛は死後も尚我が子を守り給うという結果をみたのである。又,今彼女が置かれている現在を
「慈音の母の如く無知無学の者なるに拘わらず,今は天界に於いて安らかなり」と貴尊は未知日記の講義の中で仰せられて居るのである。
此の母がこの子を産んだのである。
私が始めて老師に引き合わされた頃,天界に生を全うしているその母と,肉体を地上に有するその愛児との間は既に空実の厚い壁は取り除かれていたのである。然し,そうした事実を全く知らず,又想像もつく筈のない私であった。
精神科学については完全に無知であった。
其の私を前にして,老師は五〇年前に物故された母に対して,母の意見を問いただしたとか,相談したとか,母は現在かかるところにかかる暮らしをしているとか,今日の天気でも語る如く淡々として居られた。
私の内心の〇〇も当惑も疑惑もまるで気づいていないかのような様子をみせた。然し,人魂不滅について全然白紙であった私であってみれば,考えてみる糸口を持たない私には斯うした無理押しの談話が私にとって必要であったのである。何もかも相手を見通しておる彼の最小限の方法であったのである。



      中木検校



慈音老師は生まれ故郷の菩提寺の住職,鷲山和尚からまだ小学生の頃,碧厳録の講義を聴き禅に親しんでいたことは後年短期ではあったが悟由禅師の指導を受けたことと共に,中木検校より東洋音楽の神髄を授けられるにあたり禅の修業がどの程度役だったか私には測りかねるのである。
然し,慈音老師が中木検校の許にいた頃既に自得見性していたことは事実である。当時,京都から導師を迎えて有志が集まり梅田にあった或る旧家の屋敷を借りて座禅をしていた。其の集まりで老師は首のない幽念(俗に云う幽霊)を見たことを話されていたからである。その幽霊には首がなかったので,不審に思い導師に訊いたところ,導師は「貴下にも見ゆるか」と驚き,且つ人々の動揺を恐れて口止めされたのであつた。其の宿の主人は客(刺客)を迎えて頭を下げた刹那に上から切りつけられ首をやられたのであった。と老師は語られた。
半信半疑の私に老師はよく幽霊話をされたものである。
中木検校が終わりの死の床において,離魂後,師弟の間にとり交はされた応答
「それでもまだ口を聞かれるのはどう云うわけですか」
「お前はまだ是くらいのことがわからぬか。魂は身体を離れてもまだ心というものが肉体に残っている。だから口がきけるのじや」
心と魂の区別,其の働きを識別させようとして老師は其の話を屡々私に話されたのであった。
又,老師は自得見性は刹那的体験である。その見性を自分は一昼夜,24時間否,三百六十五日の体験にしたくて苦労したとも云われたが,後に貴尊方の講義を筆記するにあたり,唯,座禅によってのみならば優秀知名の禅僧にして尚且つ魂眼を開くは稀である。まして霊眼を開くことなどは稀有でほとんど皆無に等しいと云われている。
こう考えてくる時,老師が大成された途上にあって座禅と音楽の鍛錬による修業といづれが重きをなしたかという点では,初期の間はいづれ甲乙は無かったかも知れないと思う。然し,音楽的鍛錬によって遊魂の(脱魂)法を会得してからは,その後は貴尊方の指導による方法のみにて座禅とは余り交渉はなかったというより其れが不要無力となったという風に私は考えるのである。
そして私の如き無智の者には常識的な糸口が必要であったためにであろう。



「初め彼は幼き頃,母より汝には観音の力そなわりて救われたり。汝は生涯観音を信ぜよと云える母の言葉を深く信じて其れによって今日の結果を得たるなり。」と未智日記には記されている。彼女は長谷の観音を信仰してその生涯を終えた。
「あまり可愛がって貰った記憶は無いが,やはり母は懐かしい。」と慈音老師は何彼につき語った。
「尤も俺は並外れて暴れん坊で悪戯は激しくお仕置きばかり受けていた。」
生まれ落ちると同時に里子に出されて,家族との親しみ薄い上に易者の不用意な一言によって親兄弟を当惑させた。彼は感受性も並外れていたため,彼自身の内心の不満のはけ口が手に負えない悪戯となったのであろう。ある時,例によって蔵の中に閉じこめられたとき,二階に上り箪笥の中の衣服の間に砂糖を振りまいて衣服の砂糖漬けを作った。その他色々と悪戯が続き,種種の損害を作ってはお仕置きを二重,三重にもしたと告白された。又,どんなお仕置きも彼には利目がなかったらしい。
老師は生まれたとき両眼を閉じたままだった。母はこれを己の責任として嘆き悲しんだ。一定の日数を経て,母は赤子を同伴して大阪の名医をめざし吉野山を下ろうとした其の門出に当たり,赤子は両眼を見開いたのであった。
母はこれを信仰の賜として,そのまま赤子を連れて長谷の観音様にお参詣に向かったという。
彼女が大阪滞在中に急死去れた時,老師の傍らに立たれた幻影(幽念俗に幽霊)
は永く老師の心底に焼きついたのである。表面の厳しさとは反対に我が子を思う心は誠に厚かったのである。




彼の母は「空中楼閣にて迷いおりしをミキョウに救われ,慈音が仏教信者なれば盲人の身で空間に迷はさるるは不憫なれば救い給えとの母の願望をいれてミキョウは救いの手を慈音にさしのべしに始まりて今日に至りしなり」と
母の愛は死後も尚我が子を守り給うという結果をみたのである。又,今彼女が置かれている現在を
「慈音の母の如く無知無学の者なるに拘わらず,今は天界に於いて安らかなり」と貴尊は未知日記の講義の中で仰せられて居るのである。
此の母がこの子を産んだのである。
私が始めて老師に引き合わされた頃,天界に生を全うしているその母と,肉体を地上に有するその愛児との間は既に空実の厚い壁は取り除かれていたのである。然し,そうした事実を全く知らず,又想像もつく筈のない私であった。
精神科学については完全に無知であった。
其の私を前にして,老師は五〇年前に物故された母に対して,母の意見を問いただしたとか,相談したとか,母は現在かかるところにかかる暮らしをしているとか,今日の天気でも語る如く淡々として居られた。
私の内心の〇〇も当惑も疑惑もまるで気づいていないかのような様子をみせた。然し,人魂不滅について全然白紙であった私であってみれば,考えてみる糸口を持たない私には斯うした無理押しの談話が私にとって必要であったのである。何もかも相手を見通しておる彼の最小限の方法であったのである。





円海大師即ち鈴鹿の仙人



当時伊勢の鈴鹿山中にて行じられた老師(円海大師)を誰も本名を知らなかったので,私達仲間で伊勢の仙人と呼びならはしたのであった。其の仙人の伝言を得て,老師が親友の村井絃斉と共に伊勢に急行したのであるが,既に移転された後で会えなかったのである。そして両人の間に何らかの交信の道が開けたのではあるまいか。時は大正の終わりに近く,或いは昭和の初期,そして昭和8年には吉野山中にて両人は面会して居るのでそれまでに両人のあいだには立派に霊波による交信が可能になっていた訳である。
この時老師は貴尊から日本の置かれる立場,地球一界の転移の姿を事細かく説明を受けて一層の修行を奨励されたのである。とすればその時,老師は三気一体化の人間修行は遂げていたと推理して間違いない。
貴尊ご自身の記録によれば日本徳川氏元禄年間の末期土佐の武家の息子として出生されたのであつたが,不幸にして年少にして父君を他人の刃で討たれたのである。当時の武士の風習に従って仇討ちの旅に出なければならなかった。
遂には路銀も使い果たし,野に伏し,山に臥す困苦に耐えて諸国を経めぐる間に徒に壱拾「いや,違います。」と貴尊は答えられた。
「隠すには及ばない。貴下の人相に表れて居るから申すのじや。然し仇を討ち取ったとて其れで死者の妄執が晴れるというものではない。武士の則と言ってみても所詮は人間の妄執じや」と
その旅僧は肉体は切れても精神は切れぬ。互いに殺し殺されてなんになる。結局は妄執を重ぬるにすぎぬではないかと
物静かに大自然の道理を説かれたのであった。10年の歳月を得て父の仇を討って其れだけでよいものか。其れで万事一切が真に片づくものか。如何かと内心密かに疑念をもち,思い悩み迷って居られた際とて貴尊には旅僧の一言一句が心に滲み,身に沁みた。
結局意を決して仏門に入られた貴尊は空しい幾年を過ごされた末に山岳教に転じられたが其処にも心は満たされなかった。斯くして,最後に選ばれたのが行者道であった。
以上はこだま会において慈音老師の口を通じて自ら語られた,貴尊入山前の概略である。又,大師が仇とつけ狙っていたその人も亦,行を積まれて大徳の行者となっておられた。と大師は語られた。
次に引用するのは貴尊が「未知日記」の講義にて自ら述べられた談話である。




「私は三十年間各地を放浪して一定の職も無く,唯無駄な日々を送っていたに過ぎなかった。それから以後百五十年間全く夢の如くに過ぎてしまった。
考えてみると私は何のために世の中に出てきたのだろうかという,何だか取り留めのない年月を重ね,世上の交わりとは全くかけ離れた生活を続けていたに過ぎなかった。短いようでも百五十年といえばかなり長い年月であったに違いない。だが,私には其れが長いとも短いとも感じなかった。世上の人は美味美食を求め贅沢三昧に日々を送っている。私と雖も若い頃は女性を恋したこともあつた。
深山にわけいって,師の坊より肉体の苦患を味はされ,辛き思いをなして其れが何になることぞというような棄鉢的な考えを持って,あまりに我が惨めさを想う時,下山して還俗しょうかとも感ずることは屡々て゛あった。生きて居る以上,鞭打たれれば痛みを感じ,食せずば空腹を感ずるは当然のことにて,寒気身に迫り白衣一巻にては凍死するやも計らず,斯るときは実に悲しくもあり,又莫迦莫迦しくも覚える事は我も人である,我も人間である。肉体の具備ある以上これは是非無きこと。泰岳の如くすべての行に対して喜び勇んで任務に服するようなことは私には到底難しく感じられた。



師の坊曰く「汝等は難行苦行と思うによって行は進まざるなり。泰岳の如く喜び勇んで行ずるならば難行苦行も消滅して苦痛を感ずるものにあらず。石上に余年の歳月を費やして仇の在所は知られなかった。
季節は丁度春四月,釈迦降誕の法要が営まれていた。田舎寺の群衆の中を貴尊は歩いて居られた。その時,托鉢の一人の旅僧が貴尊に近づき,しげしげと顔を見つめて声を掛けられたのである
「お武家!貴下は仇を探して居られる。」し,以上の如きは昭和20年の敗戦迄の話である。終戦後は師弟の間の談話は沈黙に変わったのである。
中木検校の滅後老師には身体を有して地上に生存する師は与えられなかったのである。村井絃斉氏の如き親友はいた。然し,師と親友とは相違するのである。
知己と老師の芸術を高く評価する人々はあっても其れは真の師ではない。
母の要請を入れて指導の手を伸ばされたミキョウ貴尊によって初めて大自然の大道に引き出されたとて最初,未修練,未熟の間の彼は矢張り孤独の感に冒されて居たらしいのである。彼の修端座して,頭腹一体の法を求むるは是安楽の法にして苦患の法に在らず。
楽しみを得んが為の苦しみは是苦しみに在らず。汝等よくよくこころせよ。」と屡々仰せられ其の都度痛棒を味はされたり。
法を伝えられて行なはずば何等の価値もなし。法力を錬磨する者は全く命がけの態度なれど,門外の人より見るときは滑稽に感じられるであろう。斯ることをなして法力を会得したりとて百人,千人悉くなし得られるものにあらねば,実に異様の感にうたるることは察せらるるならん。斯る事をなす隙にて人間としての働きを他にもとめて其れにいそしみおるならば世の中にもてはやさるる人物となる事もあらんに,山間僻地にありて斯る行をなすとは,はてさてものずきなるものかなと嘲る人もあらん。我等も時々は斯る行を廃して他に道を求めんかと思いしことも幾度かありしなり。
然るに行徳備わり,法力加わるに至りて此処に迷夢より醒め,真実の人間の道は明白に眼に写るようになりて今更人間の道の余りに広大なるに驚きたり。
其は法力,行力の熟達したるによってにあらず。心の迷いが悉く清浄せられて,魂の威徳が現れきたりしなり。」と修行の経過を以上の如く述べられた。




教主は
「円海の如く神を知らざる者が種々様々の難行苦行を重ね,そして神を知るに至る。是等は習慣性法力の積み重ねたる結果なるが故にいわゆる信仰の力によって望みは達せられたるにて偉人というにあらず,熱心なる信仰者なりと云うの他なからん。」と円海大師の信仰の念厚きを賞せられているのである。




昭和二十一年の春,円海大師は百八十歳の高齢にてチベットの高山にて昇天された。その時の様を未知日記には




「円海は召しだされ出現し来たりし時,己が肉体を土中に埋めてそして魂のみ上昇し来たりしと聞かさるれば世人は如何に考うるや。円海は自殺したりと考うる人は多かるべし。」と記され又「円海の如く天界より召されて己が肉体を地中に葬り,そして脱魂して天界に来たりたる如き業をなす事を得るなり。
是等は法力行力すべて正かりし故なり。真の聖者と云うは円海の如きを指すなり。」と記され,現在の円海大師は
序でに,今日尚世界各国の深山幽谷に隠れて行ぜられる行者達について円海大師の説明をここに引用することは無益の業ではあるまいと思う。



「ところで慈音さん,慈音さんに少し話して上げたいことがあります。其れは他でもありません。今も慈音さんが私達の修行に対して色々不審をしておられたようぢゃから今日は是に対して少しお話をしてあげたいと思いますのぢゃ。
普通の人から見ると成るほど馬鹿馬鹿しく見えるでしょう。又心有る人から見れば自分さえ修行すれば其れでよいと思うのが行者だとすれば利己主義だと思うのでしょう。又深山幽谷にもぐりこんで人交わりもせず,獣類と生活を共にするは原始時代の野蛮人で,彼らは如何なる修行して天空を駆け回る人間になったからといって,其は余り手柄にもなるまいに何のための修行をするのだろうと嗤う人もあるだろうと思いますのぢや。
そこで是等のことについて私は言い訳して,貴下方の不審をはらそうなどとの考えは少しも在りません。ぢゃが是等の不審は他の人とは違い,慈音さんのように貴尊方や教主寛大の指導を受けておられる人に話して上げて,少しでも修行の参考にして貰いたいと考えてお話する訳ですから其の心持ちで聞いて下さい。
元来,私達の仲間といってはおかしいがまあ同志者とでも云いますか,其れが世界(地球)中大抵の国に散在しています。然し,昔と違い現在は余程其の数も少なくなっていますが其れでも小一万は算えられましょう。えっ!そんなにあるかって,ハァハァありますとも,世界中ですもの狭いようでも小一万位が散らばっていては何処に居るかはしれません。其れに人の往来絶えて無き深山高山ですもの。わかる筈はありません。其れに人に会うことを好みませんから直ぐ隠れてしまったり,又巧みな業でみだりに行場へは寄せつけませんからなあー
其れにみだりに人を入山せしむるを許しません。其れだから行場,道場は容易に見っかるものではありません。行者の中には種々な人が来ますが,修行半途にも至らず下山する者が多いこと滴水の行(未知日記一巻念力集を参照)の話の時に申した通りじゃが,修行者でなく隠遁生活をしておる人も可成り居りましたが,今は極僅少ですけれど残っております。
ところで此の隠遁者と行者と混同せられて誤解される点は少なくないのぢゃ。
隠遁者のなかでも可成り修行の出来た者があって,往来の人に対して自慢で種々な魔法を使って驚かすものぢゃから其れを行者と誤解するので修行者は迷惑する事もあります。
然しこれらは初心者で,少し行の出来た者には何の影響もありません。
そんなことは兎も角,入山者として第一要点は「己の欲する一切の欲望を放棄



「現に円海のミキョウは多くの魂を預かりて,或いは天界に,或いは下界にそれぞれ運び居る任務をなしおりて,分時も怠らず忙しく働き居るなり。」と業は魂眼より魄眼,魄眼より霊眼と三気一体化の途上にあって,己の体験の正邪を確かめる第三者的決め手に困って迷い悩んだして,一切衆生を救わんことの望みを立願せよ」と是がもっとも大切な法則です。慈音さん,解りますかな。自分というものから離脱して,人類ばかりではなく一切の衆生を救はん。否,否一切衆生の為に犠牲となろう。犠牲にしていただこうと云ふ大願を立てて入山を許してくれと誓詞誓文を納むるのです。
それで入山を許されるかというとそうじゃない。これからが難行です。
先ず一週間の断食をさせて其れが済むと,翌日は弁当を持たせて薪取りにやり,彼が空腹に耐えかねて食事をせんとする時,一人の乞食を遣わして彼の弁当をねだる。是を快く施すと今度は猛獣を遣わして彼の肉体を喰はんとなさしめ,是も恐れず肉体を餌食にさせようとするだけの観念のあるやを試し,其れが通過すると,一人の賊を遣わし剣を彼が胸先に突きつけて生肝をとらんとなさしむる如き数々の試験を行いて,其の全部が通って始めて入山が許されるのです。
慈音さん如何ぢやな。貴下も一つやってみる気はありませんかな。まあ想像しても見なされ。想像するだけでも身の毛がよだつぢやありませんかな。其れのみぢやない。其れから先の修行がとても貴下方の夢想だに出来ない厳しい法則ぢや。このような詰まらぬ事を何の為にするのかとさえ考えることは二度や三度ではありません。山を離れる者の多いのも推して知られましょう。是は無理じやないと思うでしょう。然し是位の修業で挫折するようでは一切衆生の救済などとは思いもよらぬことです。だから歯を喰い縛って,肉を割き,骨を刻って修行する他はありませんのぢや。人間の煩悩は是位しなくては抑圧は出来ぬものを。慈音さん等は仕合はせぢや。貴尊寛大の慈悲で日々少しずつでも取り除かれて行くのは何と有り難い事でしょう。しっかり励みなされや。
其れから私は今に肉体を娑婆に置いて居ますので,是も不思議に思いましょう。
成る程,往生際の悪いと思うのも無理はありませんが,是には深い訳があります。其処でその理由について申し訳と云うでもないが説明しましょう。決して命が惜しいのでもなければ,娑婆に未練があってでもありません。又,不老不死の勤行をするのでもありません。
先刻も話した通り一切衆生の為と云いますと,貴下方は思いになりましょう。郷に居て人交はりをしていてさえ人類の為に尽くされないのに,深山幽谷に遁世していて一切衆生の為などとは如何しても合点がゆかぬ。又そんな事が如何なる通力自在の技があるとも学説から説明の余地は出来ぬと云ふだろうけれど其れはなにも知らない人の考えで,事実は出来るのです。其れなればこそ修行するのぢや。不思議な魔法使いなろうとてこんな苦労はせぬ筈ですぞ。
私達の同志の大半は縁の下の力持ちを喜んでやっておりますのぢや。娑婆に住む多くの人間はおろか,鳥獣虫魚のことまで救いの手をさしのべておりますのぢや。朝起きてから夜眠るまで総ての行を衆生のため祷りつづけて休む隙とてありません。処が中に隠遁して種々な魔法を会得した輩が是を邪魔するのがなかなか多いのです。是等の障碍を除去するには余程の技量が必要ですから有力な行者を要請しなければなりません。そこで私達は今少し生の養成に務めなければならぬと云う訳なんです。
それはもう天界に昇らして頂いてからでも貴尊方のようになれば下界におると同様ぢやが,私等にはまだまだそれは許されません。そこで余儀なく肉体を下界に置いて居る訳です。お笑い下さるなや。私も決して修行を怠っておりませんぞな。
オー,何ですって?  衆生を救うとはどんな行動するのかってかな ?
貴下はいま日本政府から県へ町村へとそれぞれの役所を通じて命令を下して居るのを知っているでしょう。其れが電報だとか電話だとか,或いは文書とか或いは人を遣わすとかするでしょう。此の方法に似たことを私どもの同志でもやります。
これを名付けて大智順歩の法と云って,即ち大なる智慧に従いて進むの意味なんです。丁度電話や電報文書の通信に等しいものです。是によって行者同志の連絡は充分に果たされ,論議も充分に交わす事が出来て不便を感ずることは決してありません。座していて千里の遠きも一室にあると同様なんですからな。其処で議論が一決しますと是を天界に報告して,是非の批判を仰ぎます。是と仰せられれば直ちに実行に移し,非との命なれば直ちに撤回します。
其れぢやによって世界の人心に及ぼす影響には種々様々の変化を来たし向上を計って居るのですが,ここに不逞の行者(隠遁者)が邪魔をしてその向上発展を妨げるので是を排撃するためにはなかなか一通りの苦労ぢやありません。
兎に角人間は肉体の安楽を求めておりますから,どうしても其の方に傾きやすいものですから其処を狙う不逞の偽善者には苦しめられますぢや。慈音さんも気を付けなければなりませんぞ。貴下の方にも手は伸びておりますから油断はなりません。」と貴尊は注意された。



日が経つにつれてそのご注意の通りに色々な妨げを老師のみか私まで受けたのは事実であった。



       泰岳大師




今はセイキョウの座に居られる貴尊を私共は泰岳さんと云う親しい呼び名で先ず記憶に止めたのであった。当時,泰岳大師はコーセイ.ミキョウの座におられたのであるが,円海大師は門兄泰岳としてこだま会員たる私共に紹介され,その人となりについて記されている。
「何故斯る書名(大痴大覚)選んだかと申しますと,私の先輩に泰岳と云う人がありまして,生まれつき愚物でしたが子供の頃から寺参詣が好きで夜が明けてから眠るまで,ブツブツと云いながら拝むので坊主にしようと寺に頼んで出家させようとしたが一ヶ月足らずで断はられて望みは叶はなかったと云う愚物きていて,修行者話もよくされたからである。戦後老師は多忙をきわめたように私は思う。
           

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