未知日記    大霊界 心に伝ふる無言詞と魂に‥‥   教主寛大講義

心に伝ふる無言詞と魂に伝ふる無言詞の相違  その11                                                                                                                               教主寛大 講述


 斯くすればかくなると思ひて迷ひ居らば、斯くなるの連続にしてはてしなし。未知日記に於て汝等諸子は猫の例話を聞きたるならん。猫は鼠をとらんとして却って鼠に食まる。是等は平常心にあらざるが故なり。己が天分を自覚し居らばかの老猫の如く鼠を捕らずとも鼠は来らざるなり。是平常心を指したるなり。鼠は恐れて猫に来らざる底の平常心になり居らずば、すべてに通ずること難し。されば大切なることは修養修業によって、平常心を求むるにすぎずと云ふに帰着す。心常に平なれば道は広し。広き道を闊歩するに何の躊躇するところあらんや。盲者とて危ふからず歩みを進むることを得るならん。
 汝等諸子は彼是道を求めて道なき道にふみ迷ひて疲労を覚え、果は倒るる如きは一方的の考へなるが故に歩みは空しくなるなり。広き道を広く歩まば迷ふことはあらざるべし。道を広くせんがためには平常心ならざるべからず。この理をよくよく考へて大悟せよ。執着心は早く捨つべし。ものにこだはり居りては傷く。ここに於て心に伝はる無言詞との相違あるなり。
心に伝はる無言詞、引いては魂に伝はる無言詞、更に進んで霊に伝はる無言詞ならざるべからず。是を名づけて三才法則と云ふ。即ち汝等諸子が話し居る天地人の三才に等し。心に伝はる無言詞は地に属し、魂に伝はる無言詞は人に属し、霊に伝はる無言詞は天に属すと知らば可ならん。
故に儒教は地に属し、仏教とキリスト教などは人に属す。されど天に通ずる宗教はあらざるなり。是は全宇宙の全部を認識することを得ざるによって考案工夫すとも、人智にては得られざるが故なり。我等は宗教者にあらずと語りしは此理あるによってなり。我等は唯全宇宙の姿を汝等衆人に知らしめんがための役目を有し居るにて、斯くして天界に来れよとか或は斯く々々の修業をなして天界に来れよとか云へる教へによって、宗教者の如く一方的に導かんとするものにあらず。唯宇宙全土の図面を汝等衆人に示し居る迄にて、此道を択べば此ところに来ると云ふ図面を示し居る迄なり。

故に汝等諸子は己の欲する所を択びて勝手に行きたき所に行くべし。釈迦は極楽行の空路を作り、イエスは天国行の空路を作り、孔子は人の行くべき道を作り出せし迄なり。我等の諸子に示めしたる図面によって更に新しき空路を作らば、釈迦イエスの如くなる宗教者となることも其は諸子の考へに任すもよし。諸子は此図面によって宗教者たらんとせば宗教者となるべし。其は随意なり。敢へて止むるものにあらず。されど世を害し人を傷くる如き誤ちたる道を広むることなかれ。

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