覚者慈音217  未知日記講義第十二巻大霊界  絶対とは如何なるものか   教主寛大講義

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO168
 絶対とは如何なるものか          その11                                                   教主寛大 講述


 兎角人は暗中を捜り歩き居るによって、頭を打つ迄めざめざるなり。無言詞界の人類ともならば前途に輝ける光明によって凡てを感受す。故に前途は明るし。光明より光明の世界とは無言詞界を越えて、大霊界の方向に輝き居る光明にして、又後方にまなこをむくるともその光明は後方をも明るくして、前後左右の区別なく、全く輝き居りて暗き処一としてあらざるなり、故に秘密と云ふことのあらざるなり。かくさんとしてかくす所無ければ何処におくも差支なからん。汝等諸子の世界の如く明暗の区ある所はかくすことを得れど、無言詞界大霊界には斯る所あらざるなり。汝等諸子の世界の明暗とは肉耳肉眼を旨とするが故に明暗の区は定まる。されど魂眼霊眼にて見る時は汝等諸子の世界と雖も、無言詞界にてその光明はあますところなく照らし居るがゆえに見えざるものなし。聞えざるもの無し。汝等諸子の世界も無言詞界なるによってなり。無言詞界は全宇宙を照してあますところなし。故に汝等諸子の世界も無言詞界の流れをくみ居ることはほぼ察せられるならん。
 我、斯く語らば其はこじつけの空論ならんと思ふならん。先づ小さき例にて語らば汝等の中には千里眼と称して、堅牢なる箱の中にかくしたるものを透視して適中せしむる人もあるなり。是等は諸子の考へより見る時は一種の錯覚作用なりと云ふならん。その思ひこそ空論なり。錯覚を起すと云ふも無言詞の力なり。無言詞の力あるによって錯覚は生ず。故に適中するなり。この無言詞を正しく聞くと聞かざるとの相違にて、適中もし又外るることもあるなり。小さきことにも斯くの如き例を見ば、無言詞界とは汝等諸子の世界にもありとして考へを廻らさば、何か其処に得るところはあらざるか。千里眼と称するは無言詞界の光明を指すなり。是あるが故に種々様々の錯覚作用をおこす結果を齎(もたら)すことは云ふ迄もなし。易者が天変地異を占ふも皆無言詞の現はれに他ならず。正しく見れば適中し迷ひて正しからざれば、外るることは易者の力の巧拙による。無言詞は先づ斯くの如し。我等この事を詳しく語らんと思へど、諸子の研究がもし誤ちたる方向に足を向くれば、とり返しのつかぬ結果を齎すことのあるによって、ここに手加減を加へて語り居る迄なり。暗示と云ふも無言詞を云ふなり。無言詞の力なければ催眠術の効果なく、又薬石も病苦を治癒する力なし。すべて廃物となるの他なからん。されば無言詞の具備あるによって肉体の病苦も治癒し、心の悩みも消滅することを得るなり。無言詞を聞かんとしてその方法を会得せば、目的は達せられることは明らかなれど、無言詞とは恰も激薬毒薬の其の如くなるによって、用法を誤まてばとり返へしのつかぬ結果となることを我等は恐るるなり。秘密にして教へざるにあらずと知るべし。故に諸子は是を徐々に考案工夫して服用なし居らば、やがてはその効果顕著となるは異論の余地なし。

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