覚者慈音218

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO169
 絶対とは如何なるものか          その12                                                   教主寛大 講述


 汝等諸子は鳥はとぶ。其は翼ありてのことなり。人の飛ばざるは翼なきが故なりとのみ考へ居りては、無言詞を聞くこと難し。鳥と雖も無言詞を聞く力あるなり。鳥の空かけるは空気を応用して、翼を延ばすとのみにては無言詞を知ることを得ず。同じ翼を有しながら地上を歩きまわる雉は、遠くへは飛行することあたはず。是等も無言詞の力の相違によるなり。
 斯く語らば諸子は又も疑ひを生ずるならん。無言詞と個々に有する其々の組織とは、何等の関係も無かるべきにと思ふ心を起すならん。総じて無言詞とは霊気の現はれにして霊気とは光明なるが故に、一切諸々のものを組織する原素として是を考究せば、明暗悉くは光明にして霊気なりとの結論を得るならん。無言詞には明暗の区別はあらざるなり。汝等諸子が錯覚を起すも霊気にして即ち無言詞の作用による。例へば罪悪を犯して心に悩みあらば、種々様々の錯覚に囚はれて苦みを感ず。是無言詞の光明によるなり。幻影を見るもすべては無言詞の作用による。他より受けたる暗示の作用が頭をもたぐるもみな無言詞の力に他ならず。すべて悪事を犯す人は、其悪事に囚はれ居る間は、錯覚を起し幻影を見る如き事はあらざれども、めざめて悪事を改むれば忽ち幻影錯覚に囚はれて苦みを覚ゆるは、悪事を犯し居る間に無言詞が潜在なし居りてはたらきを静止し居れど、その悪事が退去すれば忽ち無言詞が働く。故に無言詞は潜在なし居りても他のものの退去せざる限り、はたらきをなさずして潜み居れど決して退去するものにあらず。無言詞の力は斯くも強し。希望を起して其事柄に熱中なす人は、既に無言詞がはたらきを開始して徐々に希望の方向に注入なし居るによって、その度たかまるに従ってはたらきも強くなり、最後は望を達せしむる結果となるなり。心にぶき人は中途にて希望を捨っることありと雖も、その希望は潜在して何時かは又頭をもたげてはたらくに到らん。執念とは即ち無言詞の光明のはたらきによる。故に根底より是を除去すること難し。例へば酒煙草を好む人是を排せんとして努力なし居るに不拘、容易に諦むることを得ざるも、一旦染りたる無言詞のはたらきが斯くもはたらきを静止せざるが故なり。故に執念執着は容易に清浄せらるるものにあらず。然らば絶対に無言詞は清浄することを得ざるかと云ふに是又然らず。一旦悪しき方向に足を向けたりとて悔悟して足を前方に運ぶ方法を講じなば、その無言詞は前方にはたらきを強くするによって悪事は退去す。是を応用したるは棄執着の法なり。無言詞界とは遠きを求めずとも汝の心魂、さては霊に迄及ばば無言詞界は忽ち現出すること疑ひなし。遠きを求めずとも近きにあり。近きと思ふも亦遠し。無言詞は遠近の区別なきが故なり。



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