未知日記   第十一巻   絶対界  第一章  霊空界(但し二流界のこと)   テツシン貴尊講義2021.02.20 2

未知日記  第十一巻   絶対界   霊空界  不去不来の境地とは  テツシン貴尊講義   2021.02.21


 霊空界の人類は絶対自然の法則に基きて生存なし居るが故に、安らかにして争闘等の憂ひ等毫もあらざるなり。神は地上に人類を儲けたる以上是を育てんが為には、すべての分野に応じて生存なさしむるだけの備へを計りあるは、即ち絶対自然なり。例へばここに百人の人を育てんとならば百人のものを育つるだけのそなへをなしたる対して人は其を知らず、徒にその処を好みて他より侵入し来りて其領土をせまくするが為に、百人は育つことあたはずしてここに争闘を起すなり。其は諸子の世界に多く見らるる現象なり。霊空界の人類はよくこの事柄を知るによってかかるあやまちを犯すことなく、他に領土を求めて次第々々に空所へと居を定むる故に、すべては安全に生活を営むことを得るなり。諸子は田を耕作り山を造林する方法を知るならん。一枚の田には幾何かの苗を植え一か所の山には如何程の樹木を育て得るとの方法は知るに不拘、余分の種子を多く蒔きて植ゆるところなき為、是を捨る余儀なきに至ることもなし居るにてはあらざるや。霊空界の人類はかかる事の道理は絶対自然より測定なし居るが故に、一として余分のものを作る如き事をなすものにあらず。故に絶対自然とはすべては安全ならしむるにあらざれば絶対とは云ひ難し。危険を伴ふは是絶対に在らざるなり。行くものは帰り来るものは去らざるべからず。速度を速むれば速むる程空気の抵抗力は増すならん。速度を速むれば己が呼吸の困難となるもこの理なるべし。不去不来にして始めて平穏とならん。不去不来の境地は絶対なるかと云ふに対して諸子は如何に想像するや。不去不来即ちその居に止まらば果して安楽の望みは達せられるかをよくよく考慮し見よ。諸子の考へと我等が語るとには相違あるなり。諸子は相対理論より不去不来を考ふるが故に、不去不来と聞かさるれば歩みを止めて立ち尽くす外なかるべし。我等の語る不去不来は左にあらず。立ち尽すが如き不去不来は、それは止まる意味にて全く自由を失ひたる他ならず。かかることを不去不来と想像するも、相対自然の考へなるが故に誤解するなり。宇宙全土を絶対と見なすならば何処に歩みを進むるともその全部を絶対なるが故に自由なり。歩みを進むるとも居を定めずば不去不来なるべし。聊か言葉の云ひまわしが至らぬため解し難からん。是を分り易く語るならば、汝は汝の家に住居て汝の家の領土を自由に歩み、或は戸外へ或は屋内へと肉体に自由をあたへ居るならん。されど汝は我家として其処に安住し、他の処に至らずば其は不去不来の境地なるべし。然るを我家にありながら手足を縛られて屋内の一角に置かれたりとせば如何!諸子の考ゆる不去不来とは我家の内に手足を縛られて、一角に押し込められたると同様の考へを、不去不来と想像し居りては絶対自然を認識することは得ざるべし。全宇宙を我家としての不去不来を考へずば、絶対原理を発見する事は至難ならん。我等の語る不去不来とは今は西にあり、明日は東にあると雖も不去不来の意味を理解したるひとならば、其にてその理は察せられる道理あるなり。今日は西、明日は東と転々すとも不去不来は不去不来なり。されど相対自然より見る時は、それは相対自然より見る時は、それは不去不来にあらずして、転々と迷ひを重ね居る如く察せられるは、相対と絶対との相違あるが故なり。これにて相対と絶対の相違を知ることを得たるや。或は禅問答の如く考ふるや。全宇宙が我家ならば何処に行くも、部室の中を歩むと同様なるべし。故に諸氏は地球の上に住居なし居りても亦他の世界に移るともすべては我家なりと解釈せば、不去不来の境地を何処に求むる要もなからん。その居に住居てそのまま不去不来の境涯に,入ることもなし得らるることに留意せば、居ながらにして永久安楽の道は開らかるる筈なり。不去不来の境地は他にあらず。敢て他を求むるの要なからんとは考へざるや。
 霊空界の人類ならば諸子の地球にありても、その所を霊空界として生活力を有すと思はば可なり。人智進みて向上発達すればかくの如き程度迄、世を建設することを得ると承知せられよ。 

×

非ログインユーザーとして返信する