未知日記  絶対界  第一章  霊空界  テツシン貴尊講義 2021.02.17

未知日記   第十一巻    絶対界   巻の一   霊空界   テツシン貴尊講義
2021.02.16


 諸子は民主主義とか或は社会主義とか称して種々様々の党派を造りて国を治めんとなし居れど、未だ絶対的の方法は完成なし居らざるが故に、安からぬ日をすごし居ることを見るに徴しても明らかなる如く、諸子は絶対と云ふ事に対して正しき認識をなし居らざるが為、平和を望まれずして今尚相対関係となりて、争ひを続け居るにてはあらざるか。一方には物資を以て世を安からしめんと計り一方にはあやまちたる精神文明にて治めんと企て居れど、その悉くが基点を我として頂上をきはめんとの陰謀なるが故に、その悉くの方法が理に合はず、大自然にそむくが故に成立は望まれざるなり。是等の理屈を耳にする時、一方は物質本位となり、一方は精神本位として相争ひ互ひに譲らず、己が意志を貫徹せんと計るとも其は自然を曲げたる方法にして、大自然に順応したるにあらざれば両者共に成立せざるなり。物質文明は限度あり、精神文明には限度なしとの考へならば、精神文明を正しき大自然に従はしむれば、或は成功するやも計られざるべし。されど自己を基点としての精神文明は限度を有す。限度を有する方法は絶対に含まれたる相対にして永久不変とはなり難し。是を中途自然の法則と云ふ。例へば大海に小さき一本の針を入れて魚を釣る。此方法と網を入れて一時に多くの魚を捕獲するとの事柄より考へを廻らし見る時、方法と云ふ事に至っては異なるも、魚を獲ると云ふ事には変化なかるべし。されど結果を考へ見るならば其には大なる相違あらん。恰も世人の世界は大海に一本の針を入れて魚を獲るに等し。又海の中に魚の喜ぶ様々の餌を投じて魚族を集め、然して一網に是を捕獲せんと計り居る方法も構じられ居るにてはあらざるか。甚だしきに至っては大海の水に変化を与へしめて、魚族を捕獲するが如き方法すら考へおるにてはあらざるか。テツシン、諸子を魚族にたとへたるにあらず。即ち国を治むる方法のあやまれるを語り居るにすぎざるなり。
 魚には魚としての任務あり。鳥には鳥としての任務あらん。然りとせば魚の世界には相対絶対の区別ありや、又鳥には鳥としての絶対相対の区別ありやに関して考へを廻らし見よ。是等に関して如何に考究すとも皆其々に対して、明確なる判断を下すこと難からん。諸子の研究なし居る事柄は、大概中途因果の法則にて物事を処断するによって自然に遠ざかる事多し。自然に遠ざかればたとひそのものが成立なしたりとて、完全無欠の成功にはあらざるなり。完全無欠の成功にあらざれば、其は絶対とは云ひ難し。絶対には基礎的絶対と、結果的絶対との区別あるによって、従って一様ならず。又基礎的と結果的との両者の間には、中途絶対の含まれあるに依って、従ってその判断にも誤差を生ずるは当然なりと知るべし。絶対には斯くも微妙なる関係あるに依って、一言にて是を説明する事も難く、故に誤解することも多からん。されば諸子の思ふ絶対と、我等の語る絶対とにも、従って表裏の相違ある事と思ふなり。表裏の相違ある基礎的絶対と、結果的絶対との相違は、即ち表裏の関係あるによってなり。即ち尽きると云ふ絶対と、尽きざる底の絶対との意味には、同じ言葉に於ても大なる相違あることに留意せられたし。例へば道を歩みて行きづまりとなり、其以上進むことあたはざる処に至らば、其は絶対なりと思ふは諸子の考へならん。テツシンの語る絶対とは行くべきも自由なり。帰るも自由なりの絶対を語らんとなすなり。諸子は行くも自由帰るも自由の場所は、是絶対にあらずと考ふるならば、テツシンの語る絶対論は到底認識することを得ざるが故なり。諸子は大海に小さき針を入れて釣り上げたる魚を愚物として嘲笑するならん。是をテツシンに云はしむれば此魚は大海にありて絶対を知るが故に、釣り上げられたるにて嗤ふべきにあらず。賞すべきものなりと我は思ふなり。されど多くの餌に引かされて集り来る魚族は、嗤ふべきものにて賞すべきものにあらず。諸子の考へとテツシンの考へとにはかかることに対しても、相違あることに留意せられたし。諸子は仮に魚となりて考へ見よ。神は天界より手を差しのべて縋れよと命じられたる時、先を争ってこの手に縋りたるものこそ、即ち神の世界に引き上げられられるにてはあらざるか。もし神の手を離れて逃げ失すれば永久救はれざるべし。悪魔は諸子を導かんとて多くの好めるものを以て欺きたる時、其ものに引かされて集り来り一網打尽に彼に捕獲せらるれば、その後は如何あらんかに考へを廻らし見ば褒むべき事にてはあらざるべし。

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