未知日記  第五巻  感応論  有意識感応、無意識感応  テツシン貴尊講義 2021.02.01

未知日記   第五巻   自己感応    テツシン貴尊講義
2021.02.01


 一方的感応には自己感応あり。汝等小児時代にありて是を体験したる事ありしならん。そは戸外に遊びし時、過失を犯し帰すれば父母の誡めあるを恐れて門戸に立ちすくむ経験はなかりしか。是即ち自己感応作用の現はれなり。悪人が警官に挙動不審と睨まるるも自己感応の現はれが、警官に感応して縛らるる結果となるなり。汝等は是を良心の呵責と称へ居るならんも仔細に是を追求して究むれば、実は真の呵責にあらずして自己感応に帰せしむることを得るなり。まこと良心の呵責ならば誤又はその不善は再び三度犯すものにあらず。斯る事を繰り返し犯すは自己感応なるが故に又も犯すものなり。真の良心の呵責は再び犯すことなければなり。
 例へば召使などが過失を犯し、主人に非を謝しおきながら、再三再四繰り返し犯すを見ても明白に自己感応の責なるを知るべし。大悪を犯して呵責に堪えかねて悔ひ改めし者は、決して罪を繰り返へすものにあらざるを知るならん。自己感応は雲の如く不意に来りて忽ちに去る。来りては去りて又来る。所謂自己感応は善悪を判別することなくして現はるる気まぐれものなれば、良心の呵責とはその趣異なるは実にこの姿なればなり。所謂自己感応は一睡の夢に等し。自己感応は心(しん)が罪を犯したる時、魂(こん)より受くる現象にして、心魂二性の争闘とも見らるるなり。故に長く感じある事なし。是に反し呵責は魂(こん)の罪したる感応が魄に徹して、気光素は霊によって拡大して絶え間なく責め苛むによりて、堪え難き苦痛を与ふるにより、此苦悶苦痛は堪えざれば再び罪を重ぬる事なきなり。感応とは波長なるによりて恰も電波音波光波と考ふれば意味は明瞭とならん。
 自己感応即ち自己の発電が自己に通じたる電報の如く、己発電して己受信したるなり。所謂山彦のこだまに等し。汝等朝夕種々様々の雑音感応になやまされつつあるならん。雑音の中にもさのみ思はざると神経苛立しむるとあり。わけても呼鈴の長ければ苛立つものならん。そは唯いらだたしとのみ感ずれど、其いらだちは如何なる理由にて、其いらだたしさについてその様を言葉に組織して明確に説明し得るや。言葉なき感応は他にも幾多あり。筆舌の及ばぬ感じは何によって来るかを考へ見よ。

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