覚者慈音206  未知日記講義第一二巻  大霊界  絶対とは如何なるものか  教主寛大講義


未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO158
 絶対とは如何なるものか          その1                                                    教主寛大 講述


 汝等諸子は絶対と云はば頂点に達したる所と考ふるならん。されど其等は絶対にあらず。相対関係にして頂点に達したるのみなれば行き詰りにして絶対と云ふ言葉は成立せざるなり。然りとせば絶対とは不自由なるものにて、如何にすとも曲げることの困難なるものかと云ふに、其も然らず。曲げんとすればまがり、伸ばさんとすれば延び、縮めんとすれば縮む。されど本来の姿は変ずることなし。是を絶対と云ふ。自由自在にして永久不変の姿なるによって、すべてのものに対して自由を与ふる力を有し居るなり。永久不変のものにあらざれば絶対とは云ひ難からん。全宇宙の中に含まれ居る万物悉くは絶対の力によって保持せられ居るものなり。故に全宇宙のすべては絶対と云ふもの一つとしてあらずと云ふも過言にはあらざるなり。この万物に対して変化をあたへ組織もなし破壊もなす。その力こそ絶対のあらはれにして、此絶対の力なければ、物理化学の成立するものにあらず。毒あり、薬あり、黴菌あり、種々様々の障碍となるべきもの或は利益となるもの等々、考案発明せらるるは皆絶対の力の作用による。一個の細胞が破壊され組織さるるも絶対の力なり。摩擦によって火を発するも是又絶対の力に他ならず。是を大自然と云ふなり。故に大自然の法則に従はば害せんとせば毒となり、救はんとせば薬となる。自然の法則は斯くの如し。誤つと誤たざるとによりて相違あるなり。不摂生の人は病気となり、摂生宜しきを得ば病気も治癒す。此理を知りて正しき法則に従ふにあらざれば健康も保たれざるなり。
 行者は此理を明らめんとして深山幽谷に入り、難行苦行を敢へてして軈てその理を究め尽すことを得るなり。されどその大自然に順応して正しき道を択ぶもの稀なり。故に彼等は転落す。転落するも亦自然の力なり。即ち自然の法則を曲解なしたる事によるは察せられるならん。汝等諸子は斯るむづかしき難行苦行せずとも、大自然の法則は汝等を導きてあやまたしめざる法則を作りあることは、是即ち絶対の力のあらわれに他ならず。故に汝等諸子は絶対に立ち帰りて是に抱かれ居らば誤つこと少なし。絶対の力は余りに広きが故に曲解することも又多し。誤ちたる行為をなして危きにふみ入るは曲解したる故なり。否未だ解せざる故なり。其等の道理は追々語るべけれど、兎に角絶対と云ふもののありや無きゃに関して、先づ予備知識として心に止めをくべし。
 無言詞とは絶対の言葉を云ひ、有言詞とは相対の言葉となる。先に語りし空心とは絶対の心にして、虚心とは相対の言葉を現はしたる言葉なりと思はば可ならん。汝等諸子の肉体に於て、霊と云ふは絶対にして、魂魄とは相対に属し、心意は複相対と思はば頷くところあらん。我等の語る霊とは空を意味し、魂魄は虚を意味す。魂魄を霊に帰せしめずば不変とはなり難し。魂魄を霊に帰せしめざるが故に、虚となりて迷ふなり。修養修業とは難行苦行せずとも、虚なる魂を空の霊に同化せしむる方法を知るに及んで、無言詞の力より更に大霊界に移さるることは論議の余地なからん。その具備が汝等諸子の肉体に迄悉く通じ居ることに思ひ廻らせば、自ずと方法は工夫案出せらるること又疑ふ余地もなし。

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