覚者慈音207

未知日記講義第一二巻  大霊界       巻の四                        NO159
 絶対とは如何なるものか          その2                                                    教主寛大 講述


 

 魂を霊に任せんとして却って心に引かるるも、是又自然の法則を曲解して逆法を択ぶによって、同化すること能はずして空しき方向に向かふ。是虚の法則に従ふによってなり。虚に順ずれば凡ては空し。故に空に順ぜざるべからず。汝は汝なり。汝の身体に宿り居る霊を措いては他に頼むべきものあらざるなり。霊は霊に通じて神に帰す。霊に通ぜずば神を知ることも亦難し。されば霊とは絶対の法則の力にして、その力を作りしは神なりとせば絶対とは神を措いては他になかるべし。所謂霊は法にして、神は法を作りたるものなれば、神を措いては絶対と云ふものあらざる道理あらん。神と云はば形を聯層する勿れ。形を聯層するが故に絶対を知ることあたはざるなり。神は形あるものにあらず。神と云ふ言葉は符号なり。符号にのみ囚はるるが故に諸子は求むること能はざるなり。符号は神にあらず。既に神と云ふ相対性の言葉に変じたる以上斯るものに囚はるること勿れ。神とは言葉なき言葉にあらず。無言詞により一層深く進みて大霊に帰せずば神を知ること難し。我等は便宜上諸子に神と語り居れど言葉にては云ひ現はすこと難し。神を曲解すること勿れ。符号の力に引き入れられて迷ふこと勿れ。

 言葉によって神を知らんせば、如何に努力すとも其は甲斐なし。如何にすとも神を表現することは難きによってなり。然らば神はなきか。我に云はしむればありと答ふの他なし。されど言葉によって説き聞かす事能はざるは是非もなき事にして、事実は有無を伴はざる有と云ふの他なきなり。故に是を絶対と云ふ。すべてを絶対に帰せしめずば神を知る事難し。表面に現はれたる悉くは皆衆人の眼に映る。是等の物は絶対にあらず。動静の廻転によって現はされたるものなれば、増減変化をなせど絶対に帰ればすべてはもとに復す。この境地に達せずば絶対を知ることも亦難し。永久不変なる位置に達してはじめて神を知る。位置とは無言詞界を云ふなり。無言詞界より大霊界に移さるることによって、はじめて神に接する理は先づ斯くの如しと語るの他なし。

 我等この書を講ずるにあたり、絶対性原理と題目を掲げんとなしたれどこの題目にては誤解すること多からんと憂慮して、大霊界と題目を掲げしも此事あるによってなり。大霊界と云ふも絶対界と云ふもすべては言葉なり。言葉によって解せしむることを得ずば白紙を示して語るの他なし。汝等諸子無言詞を聞きて悟る修業をなすにあらざれば我等の意志を汲みとること難からん。言葉なき言葉を感ずるは誰にもなし得らるることなれど、その感じを受けて覚ると云ふは仲々のことにあらざるなり。汝等は我等に対してよく云ふ。其ことばによれば汝の意味は解しがたし。よって今少し具体的に語れよと称へ居るにてはあらざるか。無言詞は具体的とか詳細にとか云ふ如きものならば我も亦躊躇する処なし。されど如何にすとも言葉なければ通ぜしむること難きが故に、唯感じを送りて同化せしめ、その同化力より更に進んで自然に理解せしむる方法によらずば、目的は達し難し。感じと感じが一致して生れ出づるは有言詞なり。恰も夫婦交はりて子を儲くるに等し。

 我等のをくる陽の感じと、諸子が受くる陰の感じとが、一致して始めてさとりと云ふ子を儲くるに等し。陽の感じ陰の感じと云ふも無言詞にして、是を覚りに迄及ぼすはすべて、大霊界の力に他ならず。無言詞界と大霊界とは相似て斯くも相違あるなり。神を知らずともよし。汝等が心に神を作りては如何とテッシン、ミキョウ等が屡々語り居りし言葉も今に至ってうなづく処あるならん。



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